TKMA’s diary

手遅れになる前に、世の中を変えないといけない、とずっと考えている40代半ばの2児の父です。こちらのブログには、自身のフェイスブックに書いた文章を保存・閲覧することを目的にしています。

知ることの楽しさ

いつもは社会の課題について書くことが多く、

印象としてどこかネガティブになりやすいわけですが、

今日はポジティブなことを書いてみようと思います。

 

楽しさについてです。

 

私は「知る」ということがとても好きです。

 

それは他人の秘密を知るとか、スキャンダルの真相を知るとか、

そういう写真週刊誌のようなことではありません。

そういうのは、言わば「うわべを知る」ということであって、

とても表層的な出来事なわけですが。

 

私が好きなのは、もっと普遍的な、

人の心や物事のパターンを司るルールのようなもの。

物事の真理。

そんなことを知るのが、とても好きなのです。

 

なんでか、というと、単純に、とっても楽しいからです。

今まで知らなかったことを知る。

わからなかったことが、わかるようになる。

理解できなかったことが、理解できるようになる。

 

そんな体験によって、明らかに自分という個体が、

何かを感じ取る力をより増して行くことに、喜びを感じるのです。

 

「知る」というよりは「気づく」という言葉の方が

適切かもしれません。

 

気づいていることは、見えていることであり、

見えているということは、

課題に対して自分はどうすればいいのか、

どうすべきなのかを見つけやすいということなので、

「迷うこと」が少なくなるのです。

 

 

「知」への探究心を持つと、

物事に対してユニークな視点を持つことができるようになります。

 

これから、ちょっと不謹慎な例を出しますが、

あくまでも例えということでお許しください。

 

例えば、あなたが地震学者だったとします。

地震について、日々、探求しています。

そんなあなたを、大地震が襲ってきた時、

あなたはどう思うでしょうか?

 

他の多くの人と同じように、ただ恐怖におののくでしょうか?

 

おそらく違います。

地震は貴重なサンプルであり、

そこから多くの情報を得ようと言う頭が少なくとも少しは働くはずです。

 

そのとき、あなたの意識は地震という現象よりも上にあるはずです。

 

 

例えばあなたが大波を乗りこなすことを夢見るサーファーだったとします。

日々、大きな波を求めて海から海へ。

 

そんなあなたを津波が襲ってきた時、

あなたはどう思うでしょうか?

 

他の多くの人と同じように、ただ恐怖におののくでしょうか?

 

おそらく違います。

本当に海に出るかどうかは別として、

「この波に乗ることはできないのか?」と少しは考えるはずです。

 

そのとき、あなたの意識は津波という現象よりも上にある。

 

 

「知への探究心」というものは、一見、恐怖にしか見えないものさえ、

興味の対象に変えてしまうほどの力があるのです。

 

そんなふうに、物事に受け身になるのではなく、

こちらから迎えうつ意識を持てれば、

災害でさえ「ほらきた!」と対応できるかもしれない。

そういう意識を持つことが、災害に強い市民を作るのかもしれない。

 

知力とは、そういう「ちがう解釈」を可能にするものなのだと思うのです。

 

 

作家の立花隆さんが、非常に興味深いことを言っていました。

 

「死んでみたい」

 

そう言っていました。

「死ぬのが楽しみで仕方がない」と。

 

しかしこれは、「自殺願望」ではないのです。

立花さんは、誰にでも必ずやってくる「死」という現象にたいして

非常に興味を持ち、「死とはいったいなんなのか」という

永遠のテーマについて、知りたいと感じているのです。

 

その「知への探究心」が、死への恐怖を完全に凌駕している。

だから、「死」を「体験」と捉えていて、

「死んでみたい」という言葉が発せられたわけです。

 

しかし、彼は悩んでいるそうです。

彼がなぜ知りたいのか、というと、自分の知り得たことを

本に書き記して残したい、という目的があるからですが、

死んでしまったら、その体験を書き記すことができない。

 

だから、死がとても楽しみでありつつ、まだ死ねない。

 

私が彼の言葉で感銘を受けたのは、

「知ることが楽しすぎて、それが死の恐怖を超えられる」ということ。

 

こうなったとき、立花さんには怖いものがひとつもないでしょう。

すべては「体験」であり、「知りたいこと」の対象なのです。

 

 

私が「知る」ことで得たいちばん大きなことは、

「人ってこうなっているんだ」ということが

ある程度わかったときです。

 

人の心の仕組みとか、感情と心の関係とか。

 

「怒る」という感情が人に引き起こす負の影響とか。

 

「そういうことか!」とわかったとき、

それまで知らず知らずにかけていたメガネが吹き飛んだ感覚でした。

 

人間は、自分の感情を自分そのものだと勘違いしているので、

それに囚われてしまっている、という現実。

私自身、そう思っていました。勘違いしていました。

 

そして、自分の感情からの拘束から解放される方法もあるのだけれど、

それには自分を見つめ、向き合うというスキルが必要であること。

 

感情の向こう側に広がる静かなる空。

そこに辿り着くことができたときに得られる、解放的な平穏。

人間にはその領域があると誰もが知っていれば、

戦争も、争いも起こらないだろうに。

 

けれど、そこに達するには、「気づき」が必要で、

その気づきは、残念ながら他者から与えられることがない・・・。

 

仕組みが分かっていても、伝えられない歯痒さ。

そして、信じてもらえない切なさ。

 

それでも、そこにはそういう場所が、本当に存在している。

それが、現実なんですよね。

心の中の、ある場所に。

 

 

私は中学二年生のときまで、な~んにも考えていない

おバカさんな人間でした。

 

発想法はユニークだったと思いますが、特に何も考えていなかった。

 

ところが、あることがきっかけで、突然、気づいたのです。

突然、いろんなことがアタマに入ってくるようになったのです。

 

私は以前はそんな「気づいてない人」だったから、

「まだ気づいてない人」の気持ちもわかるし、

だからこそ、気づきの世界があることを、なんとか伝えたい。

 

それがときに、上から目線に見えたり、

へんな宗教でも信じているの?と思われたりするかも知れないけれど、

決してそんなことではない。

 

ただ言えるのは、いろんなことを「知る」ことが大事なんですよね。

知ることができたとき、知ることは喜びに変わるし、

もっと知りたいと思うようになる。

 

そのサイクルが、みんなの中に起こることを願っています。

勉強家と呼ばれる人は、決して勉強と思って勉強してないです。

 

ただ、楽しいんですよ。

知ることが。気づくことが。

 

その変化は、誰にでも起こることです。

そして、覚醒すると、人は、誰かにそれを伝えたくなるものです。

 

あなたも、自分が知ったことを、誰かに話してください。

話すことで、知は広がっていきます。

伝えることで、知の財産は分配されるのです。

 

そうやってベースになる人類全体の知力が上がっていくことが、

人類の進化なのだと思うのです。