TKMA’s diary

手遅れになる前に、世の中を変えないといけない、とずっと考えている40代半ばの2児の父です。こちらのブログには、自身のフェイスブックに書いた文章を保存・閲覧することを目的にしています。

リベラルかどうかは、何で決まるのか?

このところ「リベラル」という言葉が、

ある印象を持って解釈されていますよね。

 

私は、自分のことをリベラルな人間だと思っていますし、

ずっとリベラルでありたいと思っています。

 

思えば、子供の頃からリベラルであることを尊ぶ環境にいたし、

自分の個性を大切にしてくださる恩師にも恵まれてきたと感じています。

 

 

「リベラル」というのは、決して政治的な姿勢のことではありません。

物事を捉えるときの、基本的なコンセプトのことです。

 

リベラルはよく、「個人主義」とか、「自由主義」などと訳されますが、

私はそのどれもにピンときていません。

なぜなら、そのどちらもが「自分勝手」とか、

「なんでも好きにしていい」というふうに聞こえるからです。

 

人が集団で生きて行く「社会」という場所では、

常に共存共栄の努力は必要なのであって、

他の人の存在を認めることは「前提」なのです。

 

だから、個人主義も、自由主義も、

「リベラル」を正しく言い得ていない気がするのですね。

 

そこで、私が思う「リベラル」ということを、

いちばん端的な言葉で示してみたいと思います。

私のこの「リベラル」の規定は、多分、政治的には保守の人でも、

共感できるのではないでしょうか。

 

 

私が思う「リベラル」を日本語にすると、

「自由意志」です。

あるいは「自分の意志で判断し、行動する」ということ。

 

それがリベラルです。

 

対義語を探すとするなら、

「他人の意見を鵜呑みにし、他人の命令で行動する」こと。

 

だから、私は、リベラルか、そうでないかは、

最終的な判断や行動の内容で決めることではない、と思っているのです。

 

ある判断や行動をする、その根拠の部分の話なんですね。

 

 

すごくわかりやすくするために、

「軍隊」の話で例えようと思います。

 

例えば私が、武力を使って自国を守りたい、と自分の意志で思うなら、

私は軍隊に志願して入隊することでしょう。

 

軍という場所は規律が大切です。

上官の命令には、基本的には従わなければいけません。

一見、リベラルな組織には見えないかもしれませんが、

人の命令に従うということそのものが「リベラルかどうか」の根拠ではなく、

人の命令に従うという組織に入るかどうかを

自分の意志で決められるかどうかが、

「リベラル」の根拠なのです。

 

なぜなら、自分の意志で入隊しているなら、

その段階で上官からの命令に従うことを自分の意志で決めているわけだし、

逆に自分で命をかけてまで守りたくない国を

無理やり守らされることは、とても不健全だと思うからです。

 

そういう意味で、本人の意志に関わらず軍に入らなければいけない

「徴兵制」というシステムは、圧倒的にリベラルではない、ということなのです。

 

しかしその一方で、自分の意志で入隊する人を、

私はまったく否定しません。

強要を否定するだけです。

 

 

国を愛するあまり、国旗である日の丸をうち振ったり、

国歌を歌うことも、自分が本当にそういう気持ちで、

そうしたいのであれば、いいことだと思います。

 

しかし、自分にその気がないのに、むりにそうさせるのは良くない。

 

私はリベラルですが、日の丸のデザインは嫌いじゃないし、

日本の国旗は日の丸でいいと思っています。

でも、君が代は、曲としては好きではありませんから、

変わって欲しいなと思ったりはします。

 

国歌が「神聖なもの」と勘違いされているのは、

この国が、以前は宗教と国家とが一体となった

政教一致の国だったことの名残で、

君が代が神様である天皇の世の中を差した歌だ、

という背景があるからであって、

今、日本は政教分離の国だし、

天皇陛下も神様ではないことが明らかなのですから、

あとは信じる、信じないは個人の自由なわけですよね。

 

私は、平和主義者である今上天皇は人として尊敬していますが、

昭和天皇明治天皇のことは、特に尊敬していません。

 

尊敬の念というのは、心に自然に湧き出すものなので、

私は昭和天皇明治天皇を尊敬していなくても、

それを無理強いすることはできないのです。

 

でも、私が個人として昭和天皇明治天皇が好きだったら、

私はそのことを発言しているでしょう。

そのどちらもが、「リベラル」なのです。

 

そして日本は、そんな個人の思いを持っていていい、という

世界でも最もリベラルな憲法で国民のハートを守っている、

世界でいちばんリベラルな国なんですね。

 

あなたも私もその国で生まれ育ち、その庇護のもとで、

いま、自由に考えているのです。

 

 

リベラルは、個人の意志の自由を尊ぶ社会なので、

収集がつかなくなりやすい、と思われたりすつかも知れませんね。

 

それに、例えば、みんながいいと言えば「軍国主義もあり」と

解釈できるのではないか?という矛盾も感じます。

 

しかし、そのような矛盾を解決するルールがあります。

それが、「公共の福祉に反しない限り」という言葉です。

 

簡単に言えば、「他人に迷惑をかけない範囲で」とか、もしくは、

「その自由は世のため人のために使うこと」というルールです。

このルールに照らせば、あらかたすべての問題の成否は簡単につく。

 

シンプルに考えれば、「ルール化するなら力の弱い方に合わせる」とか、

「互いに相手の立場にたって、思いやりをもちましょう」というだけのこと。

まぁ、それが現代社会ではいちばん難しいことなのかも知れませんね。

 

人は「我欲」というパンドラの箱を開けてしまったのですから。

 

 

私は「チーム」というものがとても好きです。

チームというと、人はすぐに「全体主義」と勘違いします。

例えば「体育会」とか「体育会系」という言葉から、

多くの人は「個人の自由のない、理不尽で厳しい組織」と想像しますね。

 

けれど、それは、意識レベルの低い組織です。

意識レベルが高い組織になればなるほど、

個人の考えを問うているはずでず。

つまりあなたは自分の意志でこのチームに参加しているのか?ということ。

 

大きなチームになればなるほど、ひとりひとりが

しっかりとした自分の意志で参加していることが重要で、

複数の人間の自由意志が結束していくほど、強力なチームになります。

 

そのことを「チーム一丸」と言います。

 

他人の強制力で、外見的に一体に見えることと、

みんなが本当にそうしたいのだ、と目的を共有してい結束していることは

まったく意味がちがうわけです。

 

これは仕事でもスポーツでも同じですよね。

 

「いいチームだった」と思えたものは、

みんなの気持ちがひとつになっていることを実感できたはずです。

つまり「チーム論」はリベラルを根底に持っていなければ

決して成立することができないわけで、

もし仮に強い軍隊を作りたいなら、高い志を持った志願兵が

たくさんいる軍を作る、ということになるわけです。

 

どんな銃器も兵器も、人が操る以上、

そこには「心」が宿っているのであって、

無理やり戦わせたり、あるいは「恐怖」や「憎悪の念」という

ネガティブな潜在意識に駆り立てられた行動では、

最終的に良い結果は生まれないということを、

人は経験的に知っていると思います。

 

 

さて、「自由意志」という言葉でリベラルを規定してみたとき、

あなたはひょっとしたらリベラルな人ではないですか?

 

なぜなら、その内容がどんなものであれ、

あなたが今、何かの考えを持っていたりすることは、

それを許されるリベラルな社会の中で、

あなたが自由に考えるリベラルな人だからなのです。

 

私は、「自分の考えを持つ人」はみんなリベラルだと思うのです。

 

あなたが君が代を歌い、日の丸を振っていても、

「みんながやっているから」ではなく、

自分が本当にそうしたくて、それが正しいのだと思うなら、

そうすればいいし、それはリベラルな行動なのです。

 

で、あなたが自由に考えるにあたって、とても重要なことがあって、

それは、さっきのルール。「公共の福祉」のことなのです。

 

つまり、自分の考えを他人に強要してはいけない、というのが

リベラルな社会を守ることなのであって、

それはイコール、あなたがリベラルでいていい、という根拠でもあるわけです。

 

リベラルである、ということは、

自分と同様に、他者の存在も認め、大切にするということです。

 

どんな考えを持ち、どんな行動をしてもいいわけですが、

他人の自由意志を侵害し、押さえつけ、奪うこと。

それだけは、やってはいけない「ルール違反」であり、

完全にまちがった行為なのです。

 

「自分はこういうふうに考えるよ」と伝えることは大いに結構ですよね。

むしろみんながそれをもっとやるべきです。

「君も、こう考えてみない?」と言ってみるのも、もちろんありでしょう。

 

けれど、「俺はそれは嫌だよ」と言われたとき、

「なんだこの野郎」になってはいけない。

 

例えば、「日本を守るために国民は何をすればいいのか」という課題があったなら、

それをみんなが主体的に考えることこそがいちばん重要なのです。

 

軍備を増強して抑止力を高めるというのもひとつの方法かも知れないし、

争いが起こらないようにするために、対話のメカニズムを増強すべきと

思う人もいるでしょう。

 

武力衝突が起こらないためには、文化的交流を深めることこそが

いちばん大切だ、という人もいるかも知れません。

 

それらはすべて、等しく「国防のアイデア」なわけです。

 

で、大事なのは、先にも言ったように、そのことを主体的に考える

ということなのであって、国が国民にそれを要求するなら、

皆が主体的に考えられる情報や環境を整えることが重要なのです。

 

 

かく言う私は、自分の愛する人を守るためなら、

自分の命なんて、まったく惜しいと思っていません。

 

しかし、自分が好きでもなんでもない人のために

自分の命を捨てるのは嫌だと思っているし、

自分の友達になるかも知れない人の命を奪うことも

したいと思っていません。

 

どこの国の人とも、友達にもなれるし、嫌いにもなれる。

それは日本人に対してだって同じですよね。

 

隣の日本人より大好きな中国の友達ができるかも知れない。

絶対に正しい日本人もいないし、

北朝鮮の人は全員が絶対にまちがっているわけでもない。

 

すべては自分次第なのですから。

すべての判断も行動も、あくまでも「Private Emotion」なのだし、

そうあるべきなんです。

 

だから、少なくとも、誰かに対して銃を向けて撃つ、ということを、

他人の命令ですべきではない。

 

あなたが自分で信じて特攻隊になるのは

あなたが誰にも迷惑をかけないなら構いませんが、

自分ではない誰かを、その人の意志に反して特攻隊にさせて、

死を無理強いするということは、

あってはいけないことだと、私は思います。

 

自分の脳は自分の頭にの中に入っているわけですから、

その機能を他の人に委ねる必要はないのです。

 

 

さて、だいぶ長くなりましたが、

リベラルを「自由意志」と規定してみると、

ほとんどの人が「自分もリベラルなのだ」と思えるのじゃないでしょうか。

 

自分の意志で考え、人の意志にも興味を持ち、互いに認め合うこと。

 

その先に、「人のために自分の自由意志を使う」という領域があることに

気づく時がくると思います。

人は、自分のために何かをするより、

人のためのときのほうが、実は力を発揮できるし、がんばれるし、幸せになれる。

そういう生き物なんですよね。

 

人間は、本来はなかなか素晴らしい生き物なんだと思いますよ。

本当の人間性を発揮できれば、

地球環境の問題さえも、きっと解決できるはずです。