人の気持ちになることの、難しさ。
先日、とても面白いこと現象を体験しました。
仕事で、いわゆるLINEスタンプ、というものを考える機会があり、
その打ち合わせでの席上のことです。
こちらとしても、企画スタッフが、
いつ、どんなときに使えるスタンプか、
ということをよくよく考えた上でスタンプ案を考え、
それを提案しているわけですが、
それを見たある方が、こういうのです。
「こんなの誰も使わないよね~」
「おはよ~!なんて、私、誰にも送らないし」
「ありがとう!じゃなくて、ありがとうございます!なら使うかな」
「遅れてます!は飲み会のときにみんな使いそう!」・・・・
私はそもそもLINEをほとんどやらないので、
自分ではスタンプを送ったこともなく。
なので、使う人の会話をただ傍観者的に聞いていたわけです。
そこでのやりとりが
「こんなの使わない」「私は使う」「この言い方だと不便」とか
完全に一使用者でしかない「自分の主観」が、
まるで全世界の常識であるかのような、意見のぶつけ合いなわけです。
まぁ、ある程度は仕方ないにしても、気になったのが、
自分の意見をまったく譲らない、というスタンスなんですよね。
LINEというのは、まぁ、グループで使用する場合もあるけど、
基本的には特定の誰かとの、二人きりの会話なわけですよね。
だから、そこでどんな会話をし、どんなスタンプを使うか、というのは、
まるで密室の出来事のように、その二人だけのものです。
それはまるで、トイレでお尻を拭く時、どうやっているか、
みたいな問題なんですよね。
みんな毎日自分のお尻を拭いてると思うけど、
そのやり方について他人と共有することはないわけです。
しかも、他の人がいったいどんなふうにお尻を拭いているかは
自分とはまったく関係のないことであって、
自分だけの常識が世界基準でいいわけです。
LINEも同じですよね。相手がいるにしても、
その人が仕事仲間なのか、恋人なのか、家族なのか、
上司なのか、部下なのか、立場によってすべて個別です。
それが、使用する人の数だけ存在するわけなので、
ある人にとってはメインで使用するものが、
別の人にとってはまったく使わないものだったりするわけです。
だから私は「へぇ、そういうふうに使うんだ」なんて感じに
興味深く聞いていたわけですが、
どうしてそこで「そんな使い方しない」という言い方ができるのか。
ちょっと理解に苦しみました。
こんな小さなところから、他の人の気持ちや立場になってみることって、
人間にとって、ものすごく難しいことなのだなと、改めて思いました。
※
今朝、NHKのニュースでかつて有名だったベトナムの枯葉剤が原因となって
障害をもって生まれてしまった、ベトちゃん・ドクちゃんのうちの一人、
ベトさんが出ているのを見ました。
彼らはそれぞれの上半身に、ひとりぶんの下半身、という形で生まれ、
とちゅうで分離の手術をしたことで有名です。
枯葉剤をまいた当時のシーンが映し出されました。
その場所では、今でも手足のない子供が生まれたりしていて、
被害は、戦争は、現在でもつづいている、という内容でした。
ベトナム戦争当時、ジャングルの中に潜むベトコンに苦戦した米軍が、
そういうことなら森ごとなくしてしまおう、ということで
ベトナムの山林に広範囲に除草剤をまきました。
その薬品の影響でベトナムでは奇形の子供がたくさん生まれるという事態が起き、
先述のベトちゃん・ドクちゃんもその例だったわけですが、
こんなひどい作戦をどうして立案し、実行できたのか、といえば、
アメリカ人にとっては、ベトナム人がどうなろうと、
まったく関係ないと思うことができたからですよね。
他人事なのです。
自分の娘が生んだ子が、この作戦の影響で奇形の子だったら、
きっとアメリカ人も黙っちゃいないのでしょう。
しかし、数十年前にアメリカが実施した戦争の作戦で撒かれた除草剤の影響で、
手足がなく生まれた子は今も実際にいて、
その子たちは一生、手足がない人として生きていくのです。
それは奇形の一例かもしれません。
けれど、その本人は「一生」なのです。
ずっとその人生を送ることになるのです。
そういうふうに考えてみることができなければ、
人は自分ではない人間に対して、どこまでも冷酷になれてしまう可能性があります。
※
先日、ミュージシャンの小室哲哉さんが
「不倫」と報道されたあげく、引退を表明されました。
彼の奥様であるKEIKOさんは、ショービジネスの世界で活躍され、
小室さんと結婚したあと、くも膜下出血で倒れ、その後遺症で
高次脳機能障害を患っています。
小室さんは彼女の過酷な介護のかたわらで
音楽活動をつづけていたようです。
とあるブログで、KEIKOさんと同じように父親が高次脳機能障害となり、
その介護に苦しんだ方の体験談を読んだのですが、
そこに書いてあったのは、
介護する人にも心のケアが必要であるということでした。
そういう状況の中で、それが有名人・小室哲哉であってもなくても、
一人の人が、自分が潰れてしまうのを防ぐために、
周りに精神的に助けを求めてしまうのは、非常によくわかるとありました。
「小室さんに、とても共感する」と。
そういうことを、おそらく何も知らない無責任な記者が、
「不倫」という言葉で出来事をセンセーショナル化しようとする。
ほんのいっとき、人の気を集めるために、
名のある人の弱みを過剰な形で暴露し、貶める。
そして、世の中も、その無責任な言葉を鵜呑みにする。
この構造全体に対して、やはり私は何かを感じざるを得ない・・・。
人間が、自分ではない別の人の気持ちになって見ることの難しさです。
社会から「思いやり」が失われていく。
その喪失感ですね。
自分の立場を守るために、他人を貶めるような噂を流す人って実際にいます。
「○○はこんなことをする酷いやつだ」という内容です。
でも、私は、誰かのへんな噂を聞いても、
「本当にそうなのだろうか」と思う気持ちを捨てたくないです。
そして、噂を鵜呑みにして、よく知らない人を「酷いやつだ」と言うよりも、
なぜそういうことが起こったのか、ということに着目して、
同じことが二度と起きないようにするにはどうしたらいいのかを考えたい。
そして、当人には、不当な噂が流されたことに対して、
「さぞ、しんどかったろうね」とだけ、
言葉をかけてあげたい。
※
私は、人間はもっと心豊かな生き物だと信じているのですが、
ただの妄想なのでしょうか。
人間は、誰もが一人にひとつ、心を持っています。
その心を満たしていくことこそが、人生の意味なのではないかと思っています。
スティーブ・ジョブズも、最後は気づきました。
人生の中で、いったい何が大切なのかを。
しかし、彼は気づくのが遅すぎた。
もっと早く気づいていれば、
彼は世の中にイノベーションは起こさなかったかもしれないけれど、
もっと幸せな人生を送ることができたのでしょう。
どんなにイノベーションを起こしたところで、人はいつか死にます。
功績をあの世に持っていくことはできません。
死は誰に身にも、平等にやってくるのです。
そうであれば、ただ生きている時間を幸せに過ごすことこそが
最大の目的になるはずなのです。
幸せというのは、「達成」したり、「到達」するものではありません。
幸せとは、「状態」のことを指します。
幸せになりたいと思うのはやめて、
いま、自分がすでに幸せであることに気づけばいいだけなのです。
幸せって、自分のことを満たしている間は
どこまで追いかけても振り向いてくれないものだと思います。
自分以外の誰かに向けて何かを費やしたことに、
あなたの心の中に幸せはやってくるのじゃないかなぁ。
私はそう思っています。