TKMA’s diary

手遅れになる前に、世の中を変えないといけない、とずっと考えている40代半ばの2児の父です。こちらのブログには、自身のフェイスブックに書いた文章を保存・閲覧することを目的にしています。

国を愛するためには、愛される国であること。

今年、全然NFLを見られていないのですが、
選手たちが国歌斉唱のときに膝をつき、
人種差別に対する抗議行動をしているのは知っています。

それに対し、トランプ大統領は、
国歌斉唱のときに膝をつく選手を解雇しろと球団に要請し、
さらに大きな問題になっています。

メジャーリーグの選手の中にも膝を着く選手が現れたり、
NFLの選手に賛同する声明を出すF1ドライバーが現れたり、
国旗や国歌をめぐる状況が、
世界のスポーツ選手たちの間で毛羽立っています。



日本では戦後すぐから、この状況はずっとありました。

戦争で我が子を失った女性は、
ずっとときが経ったあとでも、
NHKの放送終了時の「君が代」さえ聴くことができず、
すぐにチャンネルを変えていた、という話も聞きました。

気持ちはわかります。

ジャパンハンドラーと呼ばれるリチャード・アーミテージが「Show the flag」という言葉で
日本に様々な要求を突きつけてきたとは有名ですよね。

「Show the flag」は文字通り「旗を見せろ」ということ。
お前はどっち側につくのか、
はっきり態度で示せ、ということですね。

そういうときに「Flag」が使われるのです。



国旗や国歌って、
つまり、その国の在り方を投影するものであって、
だからこそ、人それぞれに印象が異なるもの。

その国が、その人にどんなことをしてきたのか。
その人と、国との関係はどんなものなのか。

かつて日本では、
「お国のために」というキャッチフレーズのもとに
300万人が命を落とす戦争がありました。

その戦争を起こしたのは、国民ではありません。
日本政府です。

日本政府と日本国民の関係。
それを戦後、見直すことになったとき、
日本は「国民主権」という道を選択したわけですよね。

「国のことは、政府ではなく、国民が決める」ということです。
それはひとえに、
二度とあのような凄惨な戦争を起こさないため。

戦後の日本の平和主義は、我々国民のためのものなのです。



私は、というと、当たり前ですが、
日本を愛しているし、この国の素晴らしい風景や、
人の心に宿る文化の繊細さは誇らしいと思っています。

日の丸というデザインは、とても優れているとも思っています。

けれど、その素晴らしさは、「政府」というようなもの、
あるいは「国体」というようなもので
くくられるものではないと思っています。

国民、一人一人の自由意志で、
日の丸を愛し、国土を愛し、文化を愛する。

それが本来のあるべき姿だと思っています。

愛するって、自発的な行為ですから。
「愛せ」と言われても、心から愛していないなら
やっぱり愛することはできません。

愛のない国ほど、国旗や国歌に頼ってしまうのでしょうか。

私はそんな気がしています。



ブランディング」ってご存知でしょうか。

例えばある企業のロゴマークをみたときに、
あなたは何かを感じると思います。
「ここは好き」とか「デザインがいい」とか、
「すぐに壊れる」とか「使いやすい」とか、そういうことです。

その中で、なんらかの「いい」イメージを
包含できるようにすることを「ブランディング」と言います。

また悪いイメージがついてしまったものを払拭すること、
いいイメージで塗り替えて行くことを、
「リブランディング」と言います。

戦後、「日の丸」と「君が代」には、
帝国主義」「独裁・戦争国家」という
イメージ付けがなされてしまっていました。

我々、日本人にとって、「日の丸」と「君が代」の
ブランディングは絶対的に必要なことだったのです。

ひとつは国際社会からの信頼を得るために。
もうひとつは、我々国民が、
祖国をもういちど本気で愛せるようになるために。

日本国憲法にのっとった、一貫した平和主義は、
国際貢献の現場で圧倒的な「戦争しない国」という
ブランディングに成功してきました。

また、戦後の復興を勤勉に支えてきた日本人の努力が、
経済面や文化の面で、
「誠実な国」というリブランディングを実現してきました。

それが、このわずか数年の間に、
瓦解していっています。

大丈夫でしょうか?

いちど崩れたブランドイメージを再構築するのは、
容易なことではありません。

先般の衆議院選挙の演説の現場では、
自民党安倍総理の登場の場面で、
聴衆たちの手に日の丸が握られているのが目立っていました。

人は、国旗を打ちふるときに、
アドレナリンが出やすいものです。
好戦的になりやすいものです。

これは、イデオロギーの問題ではなく、
「争おうとする」という人の原始的な感情を
「人権意識」という知性で補おうとしてきた
人類の近代の歴史や、そこから生まれた民主主義に
逆行するものでは?と私は思っています。



アメリカンフットボールという競技は、
激しいコンタクトスポーツである反面、
非常に知性が求められる競技でもあります。

同じ目的のために集った仲間であるなら、
肌の色など、まったく無関係であることを、
彼らは誰より知っています。

それが、フットボールの文化だと私は思います。

選手たちが国歌斉唱のときに、膝をつくという行為。

それは、人類としての誇るべき行為だと、
私は思っています。



最後に、最近ニュースになっていた
エピソードをひとつ紹介します。

アメリカのある場所で、白人至上主義者の人に、
ある黒人の男性が聞きました。

「なんで僕のことが嫌いなんだ?」

白人男性は最初、無視をつづけました。
黒人男性は、この人に足りないのは「愛」だと感じ、
彼のことをハグし、ハグし返すようにいいながら、
問い続けました。

「なんで僕のことが嫌いなんだ?」

「なんで僕のことが嫌いなんだ?」

「なんで僕のことが嫌いなんだ?」

根負けした白人男性はついにハグを仕返し、
こう答えたそうです。

「わからない」

それこそが答えです。
差別に、理由はないのです。

そこに我々人類が向き合うべき、
そして克服すべき、大きなテーマがあるのだと思います。