TKMA’s diary

手遅れになる前に、世の中を変えないといけない、とずっと考えている40代半ばの2児の父です。こちらのブログには、自身のフェイスブックに書いた文章を保存・閲覧することを目的にしています。

他人の命を使う権利

 

皆さんは、ご自分の欲求を実現するために、

誰か他の人の命を使う権利が、自分にあると思いますか?

 

逆に、誰か知らない人が、その人の欲求を実現するために、

あなたの命を使う権利があると主張してきたとしたら、

どう思いますか?

 

ここでいう「命を使う」とは、労働力のことではなく、

文字通り、命を差し出させる、という意味です。

 

もっと具体的に言えば、死なせる、ということ。

 

「俺のために、お前は死ね」という要求を、

あなたはのむことができるでしょうか?

 

 

かつて、自分の欲求の実現のために

他の人間の命を使う権利を、実際に持っている人がいました。

 

「王様」です。

アレキサンダー大王とか、ルイ何世とか、そういう人です。

 

日本にもいました。

殿様ですね。

徳川家康もそうですし、武田信玄とか、そういう人たちもそう。

 

王様たちは、自分の領地に住む人々の命を、

自分の計画実行のために、自由に使うことができました。

 

なぜだと思いますか?

 

その答えは、

人類がまだ「人権」というものを発見していなかったからです。

 

 

日本では江戸時代まで将軍様が王様だったわけですが、

大規模な内紛の末に政権交代が起きて、

明治の始めに天皇がその座に着きました。

 

天皇って昔からいたんじゃないの?って思いますか?

そうです。天皇そのものはずっと昔から日本にいるのですが、

実質的に政治にいた期間は意外と短いのです。

 

少なくともお侍さんが支配していた時代は

天皇は権力者ではなく、将軍が日本を統治する権限を

天皇から預かる、という形式をとっていました。

 

権力のアウトソーシングですね。

 

で、明治になるときに、

やっぱり国を支配する権限を天皇に返せ、

(と薩長が言い出し(汗))江戸幕府は倒れ、

天皇国家元首にした明治時代になるわけです。

 

それまでの一般の日本人は、別に徳川幕府に仕えていたわけではなく、

自分が住んでいる場所の領主に帰属していただけですから、

自分が「日本人である」などという感覚はなかったでしょう。

 

明治政府は日本全土にいる日本人の命を、

自由に使えるようにしたかったわけですね。

だから、天皇という日本全体の領主をまつりあげて、

国民を天皇の子、という意味の「臣民」と呼んで、

彼のために全員、命をさせし出せ、という教育を施していった。

 

戦前までの天皇は日本の王様でしたから、

日本人の命を自由に使う権利を持っていた、ということなんですね。

だからあんな戦争ができてしまったし、

明治新政府を作った人々はそういう国づくりがしたかったから、

そういうことができる明治憲法をつくり、

大日本帝国をつくりあげたわけです。

 

これが、私たちの国、日本の客観的な近代史です。

 

 

人権意識とか、基本的人権というものがあります。

これはどういうことか。

いろんな言い方がありますが、私が自分の言葉で説明するなら、

「人はそれぞれに自分の意志で生きる権利がある」ということです。

 

別の言い方をするならば、

「自分の欲求を実現するために、他の人の命を使う権利は誰にもない」

ということですね。

 

人権意識というのは、第一次世界大戦が終わった頃に芽生えたものだそうです。

 

人間はそれまでもたくさんの戦争をしてきたわけですが、

全世界を巻き込んだ形で凄惨な殺し合いをするとまでは思っていなかった。

そこまで愚かだとは思っていなかったのです。

 

けれども、第一次世界大戦が終わったときに、

人類はなんて愚かなのだろうと、思ったわけです。

 

その反省から、王様だからって、他の人の命を好きにすることはできない、

人はみんな、それぞれの同じ重みの命を持っているのだ、

という考え方にたどり着き、それが「人権」というものになっていった。

 

これは、人類にとって本当に知性的な発見だったはずです。

そして、この人権意識に深く根ざした考え方が、

「リベラル」と呼ばれるものなわけです。

 

日本は第二次世界大戦に敗れたときに、その反省から、

民主化」が行われました。

 

世界でももっとも進んだ人権意識を持つリベラルな憲法

日本国憲法をつくり、その考えのもとに

世界のどの国ともちがう、平和を尊ぶ強い人権意識を持って

この70年を無戦争で過ごしてきました。

 

これは、世界に誇るべきことです。

 

 

いま、この国の最高のルールブックである憲法では、

天皇はいるにはいるが、まったく権力のない「シンボル」

という位置付けになっています。

 

日本は国民主権の国ですから、

現状、この国に人々を支配する権力者はおらず、

他人の命を勝手に使う権利を持った人はいないのです。

 

だから、私たちは「自由」に生きているわけです。

しかし、先にも書いたように、日本の主権者は国民ですから、

国民が同意してしまえば、他人の命を使うことも可能にはなってしまいます。

 

その部分を理解しておくことが、とっても重要だと思うのです。

 

 

例えば、安保法制でもなんでもいいのですが、

日本がどこかの戦争に加わるか、加わらないか、

あるいはその可能性についての判断をするときに、

「戦争をすべきだ」という意見を言っていいのは、

自分が兵隊になって最前線に行くことに、

文句なく同意できる人だけであるべきだと思うのです。

 

戦争は、そこで命を張ることに同意した軍隊や自衛隊

どこか自分には関係の無い場所でドンパチしてくるだけ、と思っているなら

それはとても無責任なことですし、

そもそも、自分の欲求のために他人の命を使ってしまっていることになるからです。

 

戦争というのは、軍隊がやるものではありません。

軍隊の行動によって、市民が死ぬ現象です。

だから、戦争を是とした瞬間に、あなた自身が死ぬことを

ちゃんと覚悟し、同意できなければ嘘なのです。

 

もしあなたが、「戦争そのものはいいが、自分が死ぬのはいやだ」と

少しでも考えるなら、やはり戦争そのものに同意してはいけないのです。

 

その資格が、ないからです。

 

 

国民主権とは、実は両刃です。

 

なぜなら、国民の意識が低いと、そのまま「やばい状態」に直結するからです。

為政者も「国民がイエスと言いさえすればいい」という政治手法をしますから、

なんとか国民に本当のことを言わず、方便をつかって

「了承だけ取り付けよう」という政治をします。

 

そもそも、リベラルとは、「個人を尊重する」ということですから、

リベラルな世の中は、個人に「ちゃんとする」ことを要求する社会です。

 

あなたが望んでも望まなくても、

あるいは知っていても知らなかったとしても、

現代の日本はリベラルな憲法によって

政府の愚行から国民の命を守るという、というリベラルな国家なのであって、

 

リベラルな社会は、ひとりひとりの個人に

「考えること」と「参加すること」を要求する社会なのです。

憲法にも「不断の努力が大事だ」と書いてあるように。

 

 

さて、最後に、子を持つお母さんたちに考えて欲しいのです。

あなたが苦労して子を産み、育てているのは、

いったいなんのためですか?

 

兵隊に取られて、戦場で誰かを殺し、自らも死んで行くためですか?

 

きっとちがいますよね?

もし、そういうことが現実になることを避けたいのであれば、

お願いがあるのです。

 

無関心な人が少しでも少なくなるように、まわりに話して下さい。

それがあなたのお子さんを守ることになるのです。

 

子供のいない人も、無関心な人も、みんな等しく、1票を持っています。

その1票が、無意識に現政権の側に投じられれば、

あるいは、投票そのものも行われなければ、

その罪なき意識によって、将来、あなたのお子さんが

命を差し出すことを迫られるかも知れないのです。

 

誰も他人の命を使う権利なんて、持っていないはずです。

 

それを手にしたいと思う人々から、子供たちを守ってください。

私も、がんばります。

明治時代を、どう定義するのかが重要です。

この正月、久しぶりに母を我が家に招きました。

母は私に似てとても話好きなので(いや、私が母に似たのでしょうが)、

夜遅くまでかなり話し込みました。

 

何について話したかは、後述します。

 

母は戌年なので、今年、年女で、つまり72歳になります。

自他共に認める歴史好きで、今風に言えば「歴女」。

今は区の主催する歴史講座を受け持っていて、

歴史好きに歴史を講義する、ということを仕事にしています。

 

その講義の分野は、幕末史。

 

江戸時代が終わって明治、つまり近代史が始まった頃の話ですね。

 

「勝てば官軍」と言いますが、今の日本の近代史は

日本最後の内紛(戊辰戦争)に勝った側によって書かれた日本史なので、

明治新政府を作った人々のことを「国士」とか「明治志士」と呼び、

彼らを志の高いヒーローとして描いています。

 

が、近年では、負けた側からの歴史観も多数明らかになり、

今まで言われて来たことが、必ずしも正しくはなくなっている、

という話を聞かされました。

 

勝った側にも、負けた側にも、歴史は存在する。

 

まったくその通りですし、ある意味、当たり前のことですよね。

 

 

話し始めると話が長い母に対して(人のことはまったく言えませんが)、

今回、最初に切り出したのは私でした。

 

その質問は、「明治維新をどう思っているのか?」ということ。

 

明治維新をどう解釈しているのかによって、

現代をどう見るのか、ということまでがあらかた決まってしまうからです。

 

母は昔から、明治の国士たちを「立派だ、立派だ」という人だったので、

明治史観がとても偏っており、私はいつもとても不安な気持ちでその話を聞いていたものです。

 

なぜなら、そこに「庶民の視点」がないからです。

 

室町時代奈良時代ならいざ知らず、

近代史となれば、それは「いま」と直接的に繋がっています。

 

となると、我々が歴史を学ぶときに必要な視点は、

「我々とどう関係があるのか」ということに他なりません。

 

明治元年はたった150年前です。

 

そのとき、私のような庶民はどう暮らし、どう死んでいったのか。

 

その視点がないのであれば、歴史は小説と変わらない、

ただのドラマに過ぎません。

少なくとも、私はそう思っています。

 

天皇がどう判断した。

その結果、国民はどうなったのか。

 

政府が何かを決めた。

その結果、国民はどうなったのか。

 

軍が行動した。

その結果、国民はどうなったのか。

 

それこそが重要なことなのです。

なぜなら、国士ひとりの命の重みと、

そのときの庶民ひとりの命の重みは、実は変わらないからです。

 

当時は、命の重みに差があったのですよ。

もちろん、それは知ってます。

 

でも、実はその重みに差はないのだ、という発見こそが

「人権意識」というものなのであり、

人権意識こそが、戦前までと戦後を決定的にわけているものなのです。

 

人権意識とは、度重なる戦争の末にたどり着いた、

いってみれば人類の種としての進化なのですよね。

 

いま、我々は人権意識のある時代を生きています。

なので、いまの視点から庶民に人権のなかった時代を想像し、

二度と同じ時代がこないように気をつけなければいけないのです。

 

それは、種としての退化を表しているからです。

 

 

そんな母も、今は反対側からの視点を持つように心がけていて、

とても安心しました。

 

けれど、もうひとつだけ、感じたことがあるのです。

それは、せっかく幕末史を勉強しているのに、

その知識が「いま」に繋げられていないのでは?ということ。

 

そもそも薩長土の人々は本当に天皇を崇拝しているのでもなんでもなく、

自分たちが支配者になるために天皇を利用しただけでした。

 

江戸幕府天皇は対立関係にあったわけでもないのに、

そこに対立軸を生み出し、自分たちが皇軍なのだという嘘をついて、

幕府側を追い詰めていった。

 

つまり彼らは、目的を達するためなら、

どんな嘘をついてもいい、どんな卑怯な手を使ってもいい、

という考えを持っているわけで、そういう彼らの性格を知っていれば、

いまの安倍政権の戦い方も腑に落ちるし、

今後のストーリーも予測できるというものです。

 

 

いまこの国で起きていること。

 

それは、こういうことだと、私は思います。

 

かつて日本を独裁国家にすることに成功した長州や土佐の末裔が、

かつて天皇を利用してこの国を支配するために作った憲法や法律を取り戻し、

国民主権基本的人権の尊重、平和主義を無き者にして、

日本を再び明治の頃の体制に戻す、ということ。

 

それが、いま、日本が向かっているベクトルです。

それを国民がどれほど認識しているか、ということ。

政府がとってきた愚民政策のせいで、国民は政治的思考を骨抜きにされています。

 

政治家がやりたい放題にできる国づくりが、成功しているということです。

 

私の言っていることが、「陰謀」とか「たわごと」とか、「考えすぎ」に聞こえたなら、

ぜひ考えてみていただきたいのです。

 

なぜ安倍晋三が明治を賛美するのかを。

 

なぜ安倍晋三は、戦後レジームからの脱却と唱えるのかを。

 

戦後レジームとは、そもそも、いったい何なのかを。

 

ひとつ答えます。

自民党、安倍政権の言う戦後レジームとは、

国民主権、平和主義、基本的人権の尊重」のことです。

 

日本国民を日本政府の暴力から守っているこれらのことを、

とっぱらってしまうこと。

これこそが戦後レジームからの脱却です。

 

そのために、すでに実行に移されたのが、特定秘密保護法であり、

集団的自衛権であり、共謀罪

そしてこれから行われようとしているのが、

憲法改正であり、非常事態条項なのです。

 

国民はいつまでも眠っていると、目を覚ましたときにはこの国は

近代国家とは思えないような構造の国になってしまうのです。

 

残念ながら、これは本当なんです。

 

 

私がショックだったのは、幕末史が好きな母が、

今の憲法改正問題も、原発問題も、なんにも知らなかった、ということです。

 

思幕末史が大好きな人が、「明治憲法」や「教育勅語」の内容を知らない。

 

いまの憲法改正問題は、実は明治憲法復元問題なのだ、ということを知らない。

 

安倍晋三教育勅語の使用を認めたことを、知らない。

 

歴史で起きたことを、現代に置き換えて「教え」にしないのであれば、

歴史は所詮、小説に過ぎません。

 

小説も映画も、歴史学さえもが

プロパガンダに使われてきたという事実を見ていない、

ということになってしまうと思うのです。

 

 

我々、日本人が前後にやらなければいけなかったことは、

日本の近代史を客観的にみて、

明治時代を定義づけることだったのでしょう。

 

明治時代は、それまでのお侍さんの時代を終わらせ、

着物の時代を終わらせ、

国を急激に近代化させた時代だと認識されています。

 

それは、とてもポジティブな印象です。

 

しかし、実際に行われていたことを今風に言うなら、

日本を政教一致の独裁戦争国家に作り変えた、ということなのです。

 

明治以降の日本は、神道という宗教の長である天皇を独裁者として、

10年ごとに外国と戦争を繰り返す、

今で言う北朝鮮とアメリカを足して二で割ったような国だった。

 

けれど、そういう客観的な認識を持つ日本人は少ないですよね。

 

ドイツの人に、「ナチス」がどのように定義づけられているかを質問すれば、

きっと独裁国家とか、侵略戦争国家という言葉が出るはずです。

 

年の初めの挨拶に、ドイツの首相が、

「今年はナチス誕生から○○年の記念すべき年です」なんて発言したら、

大問題になるでしょう。

 

明治時代の日本は、

自らを大日本帝国と名乗る「独裁戦争国家」だったにも関わらず、

国民がそう認識していないために、

右傾化した総理大臣が年初の挨拶で

明治維新から150年だからと、明治を賛美しても、誰も何も言わない。

 

独裁戦争国家を賛美しているのと同義であるのに、です。

 

ウーマンラッシュアワーの言う「国民の意識の低さ」は、

こういうところにも出ているのだと痛感するのです。

 

 

戦(いくさ)とは、いつも勇ましく語り継がれるものです。

誰もそれ全体を指して「愚かな行為」とは言いません。

 

その根底に、「相手が攻めてきたのだから仕方がない」的な思考回路があるはずです。

 

好きでやったわけではない、という言い訳です。

 

しかし、私は、どんな理由であれ、戦争を肯定する立場を取らない、

平和国家・日本の一国民として、

過去に起こったすべての戦争に対して、

そしてこれから未来に起こるすべての戦争に対して、

「完全に愚かな行為である」と主張しつづけたいと思います。

未来は僕等の手の中

年が明けましたね。

新年、明けましておめでとうございます。

 

年が新しくなるとき、何か希望のようなものを感じますよね。

これは、おそらく、まだ新しい2018年という年に何も起きておらず、

まだ何色にも染まっていないからです。

 

そして、これから自分の好きな色に

染めることができるように感じるからです。

 

産まれたての赤ちゃんが、みなに希望を感じさせるのも、

その子の人生が、まだ何色にも染まっておらず、

これから努力次第で何にでもなれる、なんでも達成できると

思わせられるからです。

 

でも、日、一日と時間が積み重ねられていくと、

そこに期待したのとはちがう現実が積み重ねられ、

後からその年を総括するに、「キツイ年だった」とか

そういう1年になる可能性がある。

 

産まれたばかりの赤ん坊が、

将来、殺人犯になってしまう可能性もあるように。

 

さて、新年早々、暗い話をしたいわけではないのです。

新しい1年を本当に素晴らしい一年にするために、

是非とも視点を変えて欲しいと思っているのです。

 

それは、2018年の年末のことを、ちょっと想像してみることです。

そうしたらあなたは、この1年を振り返ったとき、

どんな1年だった、と振り返りたいですか?ということ。

 

あなたはそのとき、どんな気持ちでいたいですか?ということ。

そのことをありありと想像してみて欲しいのです。

言ってみれば、2018年の完成形を想像するのです。

 

そこから逆算すれば、

いま、あなたがやらなければならないこと、

今日、あなたが向き合うべきこと、

というのは自動的に導き出されてきます。

 

1年なんて、あっという間ですよね。

今は寒いけど、あっという間に暑い日々がやってきて、

そのあと、今みたいに寒い冬がまた来ます。

 

その近い未来に、あなたはどうなっていたいのか。

考えて見てはどうでしょうか。

 

もしあなたが2018年を、「良い年だった」と振り返りたいなら、

あなたの思うように、良い年にすればいいのです。

 

あなたの手で。

 

あなたの未来の選択権を持っているのは、

他ならぬ、あなたなのですから。

 

 

さて、世の中には「一見、無理」と思えることがあります。

 

ではなぜ、無理だと思ってしまうのでしょうか。

無理だと、思い込んでいるのでしょうか。

 

実は、「無理だ」と思うことが、

「無理であること」を実現してしまういちばんの推進力です。

 

なぜなら、あなたの未来の選択権を持っているのは、あなただからです。

あなたが無理だ、と決めているから、無理になるのです。

あなたが「できない」と決めつけているから、実現できないのです。

 

「あなたは、あなたの未来の選択権を持っている。」

同じ意味ですが、もっと切実な言い方をすると、こうだと思います。

 

あなたは、あなたの未来へ向かう飛行機のパイロットで、

今、まさに、その操縦桿を握っているのです。

 

あなたが強い意志をもって操縦すれば、

どんな形であれ、

あなたという飛行機は目的地に着陸することができるでしょう。

 

けれど、あなたが「操縦するのは嫌だ」とか

「面倒臭い」とか、「誰かにやって欲しい」などと思ったら、

まっすぐに飛行機は飛んでいることさえできないのです。

 

なにぶん、飛行機なので、何もしないと墜落してしまうのです。

そのことに気づいた人だけが、自分の人生という飛行機を

自分の意志で操縦できるんですよね。

 

他の人に操縦を任せてしまうと、墜落しない代わりに、

とんでもない場所に連れて行かれてしまいますから、

やっぱり、あなたという飛行機は、あなたが操縦しなくちゃならないのです。

 

 

ちょっとネガティブな言い方をしてしまいましたが、

これは実はとってもポジティブなことなのです。

 

だって、

産まれたての赤ちゃんが、将来、何にでもなれるのと同じように、

あなたの2018年が、現時点では良い年になる可能性があるのと同じように、

 

すべての運命と呼ばれるものは、実はあなたの意志次第で

どうにでもなるものだ、ということだからです。

 

でも、他人任せにしていたら、あなたの2018年は、

良いとは言えない年になってしまう、ということでもある。

そういうことです。

 

では、「人生」とか「未来」というものを、

どうやったら悔いのない、

素晴らしいものにできるのか、という

一つのヒントを紹介します。

 

「人生」とか、「未来」っていうと、

なんだかとっても大きなものに感じますよね。

でも、どんなに大きなものも、

例えば宇宙ロケットのような巨大なものでさえ、

分解していくと、ひとつひとつの小さなパーツからできています。

 

人生や、未来を構成するパーツは、いったいなんでしょうか?

 

それは、「1日」です。

人生とは「1日」が寄り集まった集合体です。

未来も同じです。

 

ですから、人生や未来を良くしたいと考えるなら、

自分の今日1日を良くすればいいのです。

 

1日は24時間ですよね。

 

その1時間1時間を大切にすごせばいい。

 

1時間は60分ですから、

その1分1分を幸せなものにすればいい。

 

1分は60秒。

その1秒1秒を、無駄にしないようにすればいい。

 

1日は60×60×24で82,800秒です。

あなたの人生は、いつかくる終わりの日に向かって

この1秒1秒を減らしながら、前に進んでいるのです。

 

けっして戻ってこない、1秒1秒です。

 

その1秒1秒を、どう生きるか。

その1秒1秒を、どう良くできるか。

その積み重ねをやっていけばいいだけなのです。

 

1秒を、悪い1秒にするか、普通の1秒にするか、

それとも、良い1秒にするか。

 

人生という完成形ではなく、いま、この瞬間も過ぎ去っていく

1秒1秒を、中身のある、良いものにしていく。

 

その積み重ねが、あなたの人生だ、ということです。

 

 

さて、では「良い1秒」ってどんな1秒でしょうかね。

 

その問いには、絶対的な答えはないでしょう。

 

でもひとつ言えるのは、

「1秒」だからと言って、物事を短期的に考えるべき、

ということではない。むしろ、その逆なのです。

 

「今できるベストを尽くすこと。」

そういうイメージを持つことで、

例えば人生が半ばまで過ぎてしまっていたとしても、

まだまだ赤ちゃんのように人生を変えることはできる、

ということを言いたいのです。

 

となると、「良い」とはどういうことなのか、という定義が重要ですね。

 

端的に答えを言えば、幸せかどうかは、心が決めるものなので、

幸せになりたいのであれば、

「何を幸せだと感じられるか」という感受性を磨けば良いということなのです。

 

突き詰めていくと、それは「感謝」や「愛」というものに

収斂されていくと思います。

 

物理的にどんなに恵まれていても、

人間は「心のゴール」にはたどり着けません。

ただ、「もっと欲しい」という感情を煽られるだけのことです。

名声も、同じことです。

 

幸せは、他人がくれるものでもありません。

 

幸せというのは、あなたの心の中に実はいつもずっと存在していて、

その存在に気づくことができるかどうか、

というようなものなのだと思います。

 

自分を取り巻く物事の中で、

本質的に必要なものが見極められていけば、

自ずと見えてくるものなのだろうと思います。

 

 

自分の運命の選択権は、自分にある。

あなたの未来の選択権は、あなた自身にある。

 

そういう「事実」に、いかに多くの人が気づくことができるか、

ということが、社会を変える力にもつながっています。

 

そんな話を最後にしましょう。

 

あなたは、人生という飛行機の操縦桿を握っています。

ちゃんと操縦しないと、墜落してしまいますが、

多くの人は、(いや、多くの日本人は、と言いましょうか)

自分の人生の操縦桿を、いま、この瞬間も握っているのだ、

という事実そのものを知らないのです。

 

多くの人は、自分が座っている座席を客席だと勘違いして、

誰かがどこかへ連れて言ってくれると思い込んでいます。

これは、結構大きな問題です。

 

なぜなら、そういう人は、自分が乗っている飛行機が

ジャンボ機のような大きなものだと思っているので、

大勢で客席に乗っているという錯覚を起こして、

みんなで一緒に墜落してしまうのです。

 

その場合、自分だけでなく、

気づいて自分で操縦しようとしていた人まで

みんなを巻き込んで墜落してしまう。

 

墜落しはじめたとき、その人たちは、

どこかにある操縦席に座ったパイロットの手に

自分の命運が委ねられていると勘違いしてしまう。

 

その人に「なんとかしてくれ」と願ってしまう。

 

けれど、そもそもあなた自身がパイロットなのだから、

すべては幻想に過ぎず、

その状況を変えらえるのは、あなた自身なのです。

 

でも、それができるのです。

自分の力に気づくことができれば。

 

例えば、テレビというメディアがあります。

マスコミですね。

マスコミのことをコントロールできると思っている市民はいないでしょう?

 

でも、できるんですよ。本当は。

なぜなら、マスコミを操縦しているのは、実は情報の受け手である

我々だからです。

 

やり方はとても簡単です。

例えばテレビであれば、見なければ良いだけです。

 

それで「視聴率0%」を達成すればいいのです。

ただそれだけで、マスコミの構造を根底から覆すことができます。

 

銀行にみんなで押し寄せて預金を全部下ろせば、

経済システムの構造も、根底から覆すことができる。

 

実は、主導権は我々の手にあるのです。

そのことに気づくかどうかだけのこと。

 

そんなことができるわけない、と思うでしょうか?

 

人類の歴史は、数百年単位でシステムが変わってきています。

かつては世の中の中心的なシステムだった王制が、

民主主義に変わったのは、なぜだと思いますか?

 

市民が気づいて立ち上がったからです。

一夜にしてこの社会を変えることさえ、我々にはできる。

本気でそう望めば。

 

我々に「無理」とか「できない」ということはないのです。

できないとすれば、「無理だ」と思ってしまうことが、

その原因だということです。

 

まずは、選択権は我々の側にあるのだ、

ということを、もういちど意識してみることが、第一歩です。

 

常識というメガネが外れると、

世の中は一気にちがった景色に見えてきますよ。

実現のために、最初にすべきこと。

実現のために、最初にすべきこと。
 
2017年も最後の日を迎えましたね。
皆さま、この一年は、どんな年だったでしょうか。
 
私は、本当にいろんなことを学んだ年でした。
様々な社会課題を目の前にしながら、何もできないでいる自分。
 
そんな自分に意味が見出せないと感じたこともありますが、そうではないのだ、ということも、わかりました。
 
先日、あのウーマンラッシュアワーのネタと、その後のインタビューで、「なぜ欧米とちがって、日本では政治を笑いのネタにすることは難しいのか」という村本さんの話しがありました。
 
その答えはこうでした。
「笑いは、日常のあるあるの中から生まれる。日本人は政治のことをタブー視して日常的に会話しないから、あるあるにならない。そこにいちばんの問題があるのだ」と。
 
目からウロコが落ちるようでした。
私はこのインタビューを、来年、高校生になる息子と見ていたのですが、
これがきっかけで、これからの世界について、彼とだいぶ深く話しました。
 
そこで、ふと気付いたのです。
息子の意識レベルが、いつのまにかこんなにも深くなっていることに。
 
そして、わかったのです。
それは、普段から私が彼らにこのことを話しているからなのだ、と。
選挙のこと、原発のこと、戦争のこと。
私はたくさん子どもと話します。
 
そのことが、実は、次の世代に想いを受け継ぐことに繋がっている。
 
つまり、こうして、たくさん話すことこそ、もっともプリミティブな行動なのだ、と。
 
だから、私は発信をつづけるべきなのだと、思ったのです。
 
私は基本的に、ただ社会を風刺したり、誰かを責めるために発信しているのではありません。
 
本当に世の中を変えなくてはいけないと、思っているのです。
 
だから常に私の発信のゴールは、誰かが「そうか、それならやってみよう!」という気持ちに、ほんの少しでもなってもらうことです。
 
人は自分で気づかなければ変われないものなわけですが、それでも、それまでに目にしていたものは無意識に頭の中に入っていて、
いつか自分が開眼したときに、「あのとき読んだあれは、このことだったのか!!!」と振り返り、思いを強めるものです。
 
そのとき、改めて戻れる場所として機能するためにも、
発信し、それを残しておくことは意味があるのだと思っています。
 
 
2017年の最後の日に、今年の締めくくりとして皆さんと共有したい言葉があります。
 
ジョン・レノンの歌、ハッピークリスマスの中に出てくる、有名な言葉。
 
WAR IS OVER.
 
この言葉のポスターやグラフィックを見たことがある人も、きっと多いですよね。
 
私が伝えたいのは、この言葉そのものではなく、
その下に、ものすごく小さな文字で書いてある、もう一行の方です。
 
そこには、こうあります。
 
IF YOU WANT IT.
 
とてもとても小さな文字ですが、
より大切なことは、目立たないように、ひっそりと存在するものなのだと思います。
 
「君が望めば」
 
なんと深く、本質的な言葉でしょうかね。
でも、本当に、この一言に尽きるのだと思っています。
 
未来なんて、決まったものはないのです。
起きてしまった過去は変えられなくても、
未来は、すべて自分の意志で変えることができます。
 
だから、未来はすべて、自分次第です。
 
私たちには預かり知らぬ大きな力が、私たち自身の命の命運を握っていると思いますか?
私は、そうは思いません。
 
地球規模で起こる世界大戦ですら、私たち一人一人は止めるチカラを持っています。
それが現実です。
 
そういう一人が、実際に何億人もこの星に生きているのに、本来、戦争が起こるはずがないのです。
 
抵抗できない未来などない。
変えられない未来など、ないのです。
 
もし、それが変えられないという理由があるとするなら、それはたったひとつ。
「変えたい」と望む力が、まだ弱いから。
あるいは、「変えられる」とまだ信じきれていないから。
 
それだけです。
 
でも、真実は、ひとつです。
YOU CAN DO IT, IF YOU WANT IT.
 
望まないのに夢をかなえた人は、人類の歴史の中に、まだ一人もいないでしょう。
まずは「望む」ことが実現への第一歩であることは、確かです。
 
望むことから、始めてみればいいのです。
できることは、それだけなのですから。
 
 
戦争の話をしましょう。
 
そもそも人は殺し合いをしたくはないはずですね。
それでも、殺し合いが終わらないのは、なぜか。
戦争が終わらないのは、なぜか。
 
なぜその戦争が起きたのか、という理由は様々ですが、終わらせられない理由は、
ただたんに「仕方ない」と受け入れてしまっているからです。
 
あるいは、憎しみという一時の感情に、人格全体を支配されてしまっているからです。
 
けれど、あなたが戦争をしたくないとき、
敵軍も、実はできれば戦争はしたくないのだ、
ということを、わかってみるべきです。
 
ではどうして、戦争したくない者同士が、
戦争をしなければならないのでしょうか?
 
ナゾじゃないですか?
 
終わらせる勇気がないからでしょうか?
馬鹿げたことを、「馬鹿げている」と言う勇気ないからでしょうか?
 
自分や、他人の命の価値よりも、己の大義名分の方が大事だと思ってしまうと、
いや、厳密には、そう錯覚してしまうと、かな?
争いは自我の欲と結びついて、終わりにくくなってしまいます。
 
けれど、本当に本当に望んでいることは、なんでしょうか?
 
大切なことに優先順位をつけたとして、そのいちばん最初にあるのは、いったいなんでしょうか?
 
そこに、ただ素直になればいいのです。
勇気を出して。
そのとき、周りからどう見られるか、とか、そんなことを気にすべきではありません。
 
 
皆さんは、本当に大切だと思っている人と
何かのまちがいで喧嘩をしてしまったとき、どうしますか?
 
とても大切な人です。
 
あなたは本当は、その人と、笑顔で過ごしたいのです。
 
でも、意見が衝突し、互いに引くに引けなくなって、意地の張り合いになってしまったとします。
 
あなたは、どうしますか?
 
私はそういうとき、「本当の望みはなんなのか?」ということに、立ち戻るべきだと思っています。
 
大切な人と過ごす時間は、ケンカよりも、笑顔でいる方がステキに決まっています。
 
ケンカしていても、笑顔でいても、同じだけ時間は過ぎ去ってしまいます。
 
我々の生きている時間は限られていて、いつか必ずやってくる「終わりの時」にむけて、人生の砂時計はサラサラと淀みなく流れています。
 
こうしている今も。
 
だから、私は、仲直りがしたいと望みます。
可及的速やかに。
なぜなら、それが、本当は相手も望んでいることだと、わかっているからです。
 
なので、仲直りをすることを提案します。
「仲直りする」というプロジェクトの前では、
それまでの自分の主張など、まったくたいしたことではなく、
仲直りを実現することの方が、優先順位が圧倒的に高いのです。
 
そのとき、相手とまず共有すべきことは、
お互いに、今の状況を望んでいないということ。
そして、本当の敵は、「ケンカをしている」というこの状況そのものなのである、ということ。
 
こうなると、我々は、このケンカの状況を変えるという同じ目的を持ったプロジェクトを達するためのチームメイトになることができます。
 
対立構造そのものと対立するために、手を組むことができる。
 
本当に、そうなります。
 
この行動の根元にあることこそが、
実は、先程紹介した、
IF YOU WANT ITなのです。
 
人は中々、自分の本当の望みに対して素直になれないものです。
 
でも、その壁を勇気を出して超えてしまえば、実はものすごくシンプルなことなんですよね。
 
望む力が弱い人は、諦めてしまうのが早かったり、ほかの人が望みを持って行動することに白けた態度をとって、邪魔しようとしてしまうこともあります。
 
でも、そんな行動も、すべては、
「本当の望みから目を背けている」だけ。
 
それを自分ではない、誰かや、環境のせいにしているだけ。
 
それだけのことなのです。
 
 
自分にとって大切なことに素直になって、
しっかりとその実現を望むこと。
 
これは、誰にでもできることです。
戦争がなくなることを望む一人が、
70億人いたら、戦争が終わらないわけがない。
 
「戦争は終わる。君が望めば。」
 
来年は、これまで以上に、「強く望む」一年にしたいと思います。

日本が戦争国家に戻る前に。

このままでいくと、戦争が起こるかもしれないと、

リアルに感じていますので、しばらくのあいだ、

「戦争だけは起こしてはいけない」という観点から

意見の述べていきたいと思います。

 

よかったらお付き合いください。

 

 

今上天皇(今の天皇という意味です)の生前退位が認められて、

まもなく「平成」という時代が終わろうとしていますね。

 

皆さんは、「天皇」について、どう考えていますか?

今上天皇の「人」の部分でもいいですし、

天皇制という「制度」についてでもいいですが、

何かしらの考えをお持ちでしょうか?

 

それぞれが、天皇に関しての自分の考えを持ってみるということは、

日本国民であるという意識を高める上で

意外といいことなんじゃないかと思うので、皆さんにもおすすめします。

 

私は例えば、今現在は、こんなふうに考えています。

 

 

◉現行憲法の決めた内容(象徴天皇)であれば、

 天皇制がこの国にあってもいいと思う。

 

◉「戦争する国」づくりの大義としての天皇制には、反対。

 

天皇陛下は、神様ではなく、「人」である。

 (戦後の「人間宣言」もありましたしね。)

 

天皇は神様ではないのだから、日本という国は

 天皇が作ったという神話に基づく話はフィクションである。

 

◉平成の天皇は平和主義者であり、個人的に尊敬している。

 

◉日本には信教に自由があり、政教分離の国なので、

 神道を国教とするような国づくりをすべくではない。

 

教育勅語は国民から人権を奪う軍国洗脳の道具である。

 

まぁ、そんなところでしょうか。

 

 

歴史修正主義」という言葉をご存知でしょうか。

 

ここのところの政治の世界でよく聞かれるようになりましたが、

今までずっと我々が信じてきた日本の歴史は嘘なので、

修正しましょう、という考えのことです。

 

その代表者の一人が、総理大臣である、安倍晋三さんですよね。

 

彼らの考えでは、過去の歴史において日本という国に非があったことはなく、

我が国の過去の戦争も、すべて正しく大義があったという位置付けになります。

 

もちろん、ナショナリズム的に国を愛している人からすれば、

とても気分のいい考え方であることは、私でも理解できます。

しかし、現実にあったことが自分に都合が悪いから、という理由で

勝手に変更して、これからの世代に伝えていこうとすることは

かなり危険だと思っています。

 

だって、過去に日本による侵略戦争は、本当にあったのですから。

 

 

ここで、今を生きる日本人がほとんど興味のない、

近代の日本で起きた歴史について、もういちど、簡単におさらいします。

わかりやすく書くので、ぜひ、知ってください。

 

ちなみに、あなたを洗脳する気は無いです。

 

 

江戸時代という時代は徳川将軍が江戸幕府を開いて日本を支配していました。

それは知っていますよね?

 

江戸幕府の政治の特徴というのは、国際情勢などというものには目もくれず、

内政だけに意識を集中していた、ということです。

 

そのおかげで、江戸文化というものが花開いたわけですが、

そのころ国外では、帝国主義の時代を迎えていました。

 

帝国主義というのは、簡単に言うと、

強い国が弱い国を武力でどんどん侵略して、植民地にしてしまうことです。

 

で、それをやっていたのは西欧の白人たちです。

彼らは近代化に遅れていたアジアに暴力的に入り込んでは

そこを植民地支配し、富や労働力を搾取をしていたんですね。

 

いい悪いではなく、事実、そういう時代だったのです。

 

 

そのころ、今の山口県や九州にいた長州・薩摩(さっちょう)の人々が中心になって、

政権交代のクーデターを起こしました。

 

江戸幕府を倒して天下をとり、

新しい日本の支配者になりたかった薩長には、

反乱のための大義名分が必要です。

 

そこで彼らは、長く日本の歴史の中で脇役にまわっていた

日本の王様に着目したわけです。

「将軍家を倒して、本来の支配者がこの国を支配すべきだ」と。

 

そうして、天皇家から許可されたわけでもないのに、

天皇家の旗を翻して自称「官軍(かんぐん)」として戦い、

本来の官軍であったはずの幕府軍を「賊軍(ぞくぐん)」と呼んで、

自らの立場の正当性を形成したわけですね。

 

「勝てば官軍」という言葉はここから生まれました。

 

「勝てば官軍」ということは、

「もともとは官軍ではない」と言っているようなものですよね。

 

ともあれ彼らは、幕府軍を倒して政権の座につくと、

「日本は天皇が作った神様の国であり、

 日本国民は神の子(臣民)なのである」

というストーリーを背景に、明治天皇の名の下に明治政府を作り、

日本という国の形を勝手に変えていきます。

 

どんな形に変えて行ったか?という部分が重要なのですね。

 

 

内政ばかりに目を奪われていた江戸幕府とちがい、

明治政府は目を外に向けました。

 

先述したように、ときは帝国主義の時代です。

近代化の遅れていたアジアは西洋人たちの武力によって、

ことごとく植民地化されていきました。

 

その様子はまさに「早い者勝ち」という感じでしたから、

薩長の人々は、こう考えたのですね。

この植民地化のどさくさに紛れて、日本もアジアを植民地化し、

この一帯の支配者になってしまおう。

 

そのためには、今すぐ文明を近代化し、軍備を強化しなければならない。

 

それが「富国強兵(ふこくきょうへい)」です。

聞いたこと、ありますよね?

 

目的は、日本を戦争国家にしてアジア諸国を侵略し、その支配者になること。

 

そんな証拠があるのか?

あります。

 

皆さん、日本の正式な国名を知っていますか?

 

「日本国」ですよね。

パスポートを見れば、「日本国」と書いてあります。

 

では、第二次世界大戦に負けるまでの、私たちの国の正式な名称はなんだったか、

知っていますか?

 

大日本帝国」です。

 

「だいにっぽんていこく」と外国に向かって名乗っていたのです。

これは、「我々は武力で領土を広げ、その頂点に立つつもりだ」ということを

諸外国に宣言しているのと同じなのです。

 

 

さて、江戸時代を生きてきた当時の日本人には、

日本が神様である天皇の国で、国民は天皇の子供だ、

なんて考えはまったくありませんでしたから、

政権には新しい洗脳が必要になりました。

 

そこで、明治天皇から、ありがたい命令がくだったわけです。

 

「日本は天皇が作った神の国で、国民はみんな家族だから、

 家族を大切にしなさい。そして、もしも、国に何かがあるときは、

 国のために命を捧げなさい」

 

こういう言葉を日本中の小学校に配って、毎日暗唱させたのです。

40年くらい。

 

それが、「教育勅語」というものだったわけですね。

 

目的は、「国民皆兵(こくみんかいへい)」です。

 

日本を戦争国家にするには、

政府の都合でいくらでも戦場に赴く「兵士」がたくさん必要になります。

 

そこで日本人を全員、戦争の道具にするために

こういうことをしたんですね。

 

ちなみに政府は敗戦後、教育勅語の効力を正式に廃止しています。

 

ん?

そういえば、最近、安倍晋三総理が

教育勅語を教育現場で使ってもいい」と閣議決定しましたね。

これは、どういう意味なんでしょうね。

 

 

さてさて、ここまでの歴史のおさらいで、

皆さんに是非知っていただきたいことは、

 

日本を帝国主義や戦争国家にしたいと考えた

薩長を中心とした勢力に、「天皇制」というものが、

政治利用されてきた、ということです。

 

そして、その歴史は、世界大戦の敗戦を契機に

いちどは姿を消したように見えたのですが、

戦後70年以上のときが流れて、今ふたたび、この国を

戦前の戦争国家に戻そうとする人々がいる、ということ。

 

それが、例えば安倍晋三総理大臣であり、

いまの「自民党」だ、ということです。

 

集団的自衛権特定秘密保護法共謀罪

そして憲法改正による非常事態条項など、

すべては、この国を明治以来の戦争国家に戻すための布石です。

 

見えますか?

点と点が。

 

 

 

大切なのは、「予兆」の段階で察知して、

火種をしっかりと始末することです。

 

点と点が、線で繋がってしまう前に、それを断ち切ることです。

それが、平和主義国家・日本の国民に課せられたミッションなはずです。

 

ここで気づき、動かなければ、日本国民は同じ過ちを繰り返した、

愚かな国民として、世界史に名を残すことになるでしょう。

 

それをやるのは、今なのです。

そして、それをやるのは、私や、あなたなのです。

企業の不正は、なぜ頻発するのか。

ここのところ、歯科に通って、治療をしていました。

奥歯の虫歯がだいぶ酷いことになっていて、

神経を抜かなくちゃならなくて、かなり大変でした。

 

歯というのは、中心にある象牙質という比較的柔らかい部分を、

エナメル質という硬い壁が覆っているような構造になっています。

 

私の歯はエナメル質がかなり硬いので、

虫歯菌になかなか突破されないのですが、

突破されてしまうと、外側からはあまりわからない間に

中側を食い荒らされてしまうので、

気づいた時には酷いことになっている、というケースになりやすいそうです。

 

今回もそうでした。

外から見ると、歯はしっかりしているのですが、

その中側がボロボロになっていて、

それが神経に到達してしまったのです。

 

外見上は歯の体をなしていましたが、

実際には中身はボロボロだったということです。

 

 

ところで、最近、企業の不正が目立っていますよね。

しかも、日本を支えてきた基幹産業にそれが目立っています。

 

多くのケースで、それは「改ざん」であったり、「隠蔽」であったり。

つまり「ウソ」ですよね。

 

このことって、皆さん、どう感じているでしょうか?

 

私は正直言って、相当ヤバイと思っています。

でもそれは、不正をする企業なんてけしからん、

という意味ではないのです。

 

いや、不正をしてもいい、とは決して思わないのですが。

 

・・・そもそも、好きで不正を働く企業はありませんから、

どうして企業が不正を働かざるを得なくなっているのか、

という仕組みについて、ヤバイと思うのです。

 

 

国際社会における、

日本人のアイデンティティって、なんでしょうか。

日本企業のアイデンティティって、なんでしょうか。

 

私は端的に、それは「誠実さ」だと思うのです。

 

日本の企業が、外国の企業と、どこかちがう部分があるとしたら、

それは技術力でも生産性でもなく、「誠実さ」だと思うんですね。

なぜなら、世界に誇る技術力も、生産性も、

すべては日本人の「仕事に対する誠実な心のあり方」が

生み出したものだと思うからです。

 

その、日本人を日本人たらしめているもの、

日本企業を日本企業たらしてめている価値が、

いま、音を立てて崩れ去ろうとしているわけです。

 

いや、実際にはもう中身は崩れ去っていて、

外側の張りぼてだけが残っていて、一見、崩れ去っている現実が

見えないようになっているだけなのかもしれません。

 

私の奥歯の虫歯のように・・・

 

 

私が、この企業の不正が、ヤバイと思う切実な理由は、

それが、日本社会の「不寛容さ」が顕在化したものだと思うからです。

 

不寛容社会、というやつですね。

 

不寛容社会というのは、「寛容ではない社会」ということですから、

簡単に言えば、人に優しくしない社会、

人のミスを許さない社会、ということです。

 

他人に完璧を求めて、執拗に責任を迫る社会です。

世の中から、白でも黒でもない、灰色の部分を排除して、

「あそび」の部分を一切認めない社会です。

 

ここでいう「あそび」ってのは、おもちゃで遊ぶことではなくて、

車のハンドルなんかで、少し回してもまだ動き始めない、

「余裕」の部分のことですね。

 

今の日本は、人間が「適当」であることを許してくれません。

 

もちろん、きっちりしてる、というのは素敵なことです。

けれど、完全に完璧な人間はいませんし、

ましてや、自分自身に完璧を求めるならまだしも、

他人に完璧を求めてしまうわけですから、

世の中はどんどんギスギスしていきますね。

 

その社会では、何かの拍子に、

いま、隣にいる人が自分の敵になって、

自分を責め立ててくるかもしれないのです。

 

そんな社会に、今の日本はなっていると思うんですね。

 

そのことと、企業の不正がどう関係あるのか?

こんなメカニズムです。

 

 

いま、企業は株主のものです。

 

株主は企業に業績を求めます。

業績を約束させます。進歩を約束させます。

 

そのことが、株価に反映されますから、

どんなことを約束できるのか、ということが、

企業の価値である、という仕組みがあるわけですね。

 

少なくとも株式市場に上場している株式会社は、

そういう価値観の世界に存在しているのです。

 

そうすると、企業は株主に「いい顔」をしなくてはならなくなります。

できない目標を「できる」と言わなければならなくなります。

達成できないことを、「達成できる」と言わなければならなくなります。

 

理由はただひとつ。

 

「無理です」「できません」という言葉を、

株主は決して受け付けないからです。

 

株主は、企業に対して不寛容なのです。

 

けれど、皆さん、どうでしょうか。

生身の人間としての、ご自分を見つめ直して見てください。

 

あなたは、未来をひとつでも約束できますか?

未来というのは、未だ来ていないから未来というのであって、

まだ来ていないことを、

確実に「こうなる」と約束できる人は、

この世に一人もいないのです。

 

けれど、みんな平気でそんなことを要求しています。

自分にできない約束を、他人に要求しているのです。

ビジネス用語ではKPIなんて言いますが、

まぁ、とにかく「成果を約束させる」わけですね。

 

そして、その約束が守られなかったなら、

大変なお仕置きがまっているわけです。

 

でも忘れちゃいけません。

みんなただの人間なのです。

神さまではない。

だから、究極的に言えば、KPIなんてものは全部ウソでしかない。

天気予報が絶対に当たるわけではないのと同じです。

 

KPIなんて所詮ウソだよね~、とか思いながら

うわべだけそうしているならわかるのだけど、

実際に現場ではそれを達成するために

めちゃくちゃな努力をさせられるわけですよ。

 

それでも、達成できないことってあるじゃないですか。

人間なのですから。

 

けれど、許さないんですよね、人が完璧でないことを。

みんな天気予報が外れると、ものすごく怒りますよね。

 

でも天気を言い当てられる人なんて、本当は一人もいないんですよ。

その事実がどこかに吹き飛んでしまうから、怒ってしまうのだし、

怒るから、嘘が必要になってしまうんですよ。

 

天気なら、「晴れと言ったのに雨が降った」という事実は隠せませんが、

例えば金属の強度が約束通りかどうか、

自動車の燃費が約束通りかどうか、

そんなことは、外部の人間にはまったくわからない。

 

だから、ときどき調べてみると、ボロが出てしまうわけですよね。

 

じゃぁ、不正を働いていた人間が、極悪人なのか?というと、

まったくそうではない。

あなたと同じ、普通の人なのです。

 

そういう人が、いろんな事情を背負った時に、

社会を円滑に動かすために、本当のことを隠蔽する。

そういう現象が起きているのだと、私は思うのです。

 

 

これらはすべて、本来なら約束不能な未来を

約束させて責任を押し付け、失敗を許さないという、

不寛容な社会システムが生み出した弊害だと思っています。

 

そして、こういう隙間やあそびのないギスギスとした社会が

人間の息を詰まらせていることが、

いろんなところで爆発しているんじゃないかと感じています。

 

不寛容な社会を変えるのは、実は自分ですよね。

まずは自分が他者を許すこと。

その小さな努力をみんながやれば、

変化はあっという間に広がるはずです。

 

アンチ不寛容社会。

 

とっても大切なことだと思っています。

子どもたちに、約束したいこと。

私は昭和46年生まれで、戦後の平和教育を受けて来た世代です。

 

教育はすべてがある種の洗脳であると言われれば、

私も平和を洗脳されているのかもしれないけれど、

昭和の平和教育は、「ナショナリズムの洗脳による蛮行」に対する

アンチテーゼとして生まれたことだけは確かであって、

それはつまり「誤った行動に対する反省」に準拠しているわけですよね。

 

私は貧乏な家に育ったので、

物理的には恵まれた子供時代ではなかったけれど、

それでも、子供時代を思い返すと、なぜかいつも楽しかったし、

幸せな気持だったように思うのです。

 

中学時代、高校時代が1980年代で、

先進国は豊かさを貧しい国に分けなければ、という気運が出ていました。

 

扇動したのはMTV世代のアーティストたちでした。

イギリスのBand AidやアメリカのUSA for Africaなどを筆頭に。

 

「自由」や「豊かさ」を基軸にした、

それをみんなで「分け合おう」という気持ち。

 

そういうものが「正しい」と思われていたはずでした。

 

東西冷戦が終わったり、ベルリンの壁が崩壊したりして、

世の中は「共存共栄・奪い合いではなく、分かち合う」世界に

向かっているように見えました。

 

戦争ではなく、平和こそが正しい、と。

 

「愛の時代になっていく」あの感じ。

社会から「不安」が排除されて行くんだ、という

そこはかとなく夢や希望を皆が共有している、あの感じ。

 

私はそういうムードの中で成長していきました。

私だけでなく、あの時代を生きた同じ世代が、

大きい流れとしては、その中で生きていたはずです。

 

日本は実体経済の景気が良かったこともあって、

経済格差は少なく、皆が、なんらかの形で好景気の恩恵に預かっていたし、

私が片親だったにもかかわらず私立大学に行けたのも、

そんな時代背景があったからに他なりません。

 

私は、ラッキーな時代を生きさせてもらえたと思っています。

私だけでなく、同世代は、みなその恩恵に与っていたはずなのです。

 

   ※

 

近年、いろいろなことがアタマの中を回り続けています。

世の中を良くしたいと、がんばろうと思うこともあれば、

もうダメだ、と諦めかけたり。

 

ふと、思うのは、私が思い悩むその感情の原因を

ずっとずっと辿っていくと、そこにあるのは、

「人間が存続していくために」というテーマがあることに気づくのです。

 

しかし、それさえ、正しいかどうかがわからなくなってきた。

 

おそらく、この地球上にいる人類以外のすべての生き物にとって、

人類の絶滅は非常に喜ばしいことなのだと思うのです。

 

もちろん、母なる地球も、我々が一方的に母と呼んでいるだけで、

地球から見れば人類は寄生虫やウイルスや、がん細胞にちかい存在なわけで、

別にいてくれなくても一向に構わない存在なんですよね。

 

そうすると、本当に「人類が存続していく」ことが

それほど重要なのだろうか、と思えてさえしまう・・・。

 

私の思考も行くところまで行ってしまったのか(笑)

 

   ※

 

ただ、どうあっても、ひとつだけ思うことはあるのです。

それは、子供達には、自分が子供時代に感じた

あの「感じ」を、ちゃんと体験させてあげたいのです。

 

口では言わないけれど、

ちゃんと「愛に包まれている」というあの感じです。

 

将来に対する不安もなく、世の中がどんどん良くなって行く感じ。

大人になることにワクワクしていた、あの感じ。

 

そういうことを思うのです。

 

今や、私の中にあるのは、それだけかもしれません。

私が生きている間にできることは、それだけなのだ、

ということが見えて来た、ということかな?

 

未来をちゃんと作れる次の世代を、この世界の中で育成していくことです。

 

奇しくも、昨日、私は中学3年生の息子に言われました。

「我が家にゲームを買わないでくれて、ありがとう」って。

 

最近、息子は精神的な成長が著しいのですが、

そんな彼から、その言葉をもらえて、

親として「ひとづくり」という観点で、自分のアプローチに

少し自信が持てたエピソードでした。

 

   ※

 

私にできることは、細々ながら発信を続けることです。

私は、自分が子供時代に、「戦争に行かされることはない」という

安心感を持っていました。

 

戦争体験というものは、過去の、

残念ながらその時代に生まれてしまった人の出来事であって、

日本人でいる限り、未来永劫ないものだと思っていました。

 

今の子供たちにも、それだけは約束してあげたいのです。

 

そして、それは可能なのです。

 

これからも、自分の信じることを発信し続けたいと思います。