TKMA’s diary

手遅れになる前に、世の中を変えないといけない、とずっと考えている40代半ばの2児の父です。こちらのブログには、自身のフェイスブックに書いた文章を保存・閲覧することを目的にしています。

北朝鮮が核兵器を持つ、シンプルな理由。

今日はオリンピックの話をしようと思います。

 

最近では、オリンピックをきっかけに作られて、

その後もそこに残るもののことを「レガシー」なんて言うようです。

 

そういう新しい言葉が出来上がるたびに、

私は、どこかに何かの違和感を感じるのですが、

その気分について自分で分析してみるに、たぶん、こういうことです。

 

レガシーって、もともとは資産や遺産という意味です。

遺産というものは、もともとはいい意味もあれば、

負の遺産なんて言葉もあるくらいで、悪いものもあるわけです。

 

が、あえて横文字を使うことによって、

なんか、ちょっといい意味で響いているように感じるのです。

少なくとも、日本人にとって。

以前、自動車の名前に使われていたからでしょうかね・・・。

 

オリンピックのレガシーについて、ちょっと考えて見ました。

 

 

もともと、日本の首都、東京でオリンピックが開催されたのは、

確か1964年ですよね。

 

これは1945年の終戦からわずか19年後のことです。

戦争で東京は文字通りの「焼け野原」になったわけでですから、

当時の人々にとっては、まさに戦後復興の象徴だったのではないでしょうか。

 

統計上、もっとも晴れている日として10月10日が開会式の日になって、

その日は以後、「体育の日」として国民の祝日になりました。

 

この国にとって、それほど歴史的なことだったのでしょう。

 

オリンピックというタイミングに合わせて、

国を挙げて様々なものが作られました。

いちばん有名なのは、やっぱり夢の超特急、新幹線ではないでしょうか?

 

日本で初となる東海道新幹線の開業は、

1964年の10月1日。

オリンピック開会のわずか10日前のことです。

 

すごいですよね。

 

新幹線と同じくらい象徴的な存在が、首都高速道路でしょう。

これは1962年に開通したようですが、

日本という敗戦国の首都・東京が、オリンピックの開催地として

国際的に通用する都市であることをアピールするために、

国を挙げて整備されたもののひとつです。

 

1964年に開催された東京オリンピックが残したもの。

今風に言えば、東京オリンピックのレガシーは、

例えば首都高速だったり、例えば新幹線だったりするわけで、

産業大国として成長した日本という国を、

ある意味、正しく象徴した存在だったと思いますし、

素晴らしいものだったのではないでしょうか。

 

オリンピックの前と後で、人々の暮らしは確実に変化し、

それはポジティブになものだったと言えると思うのです。

 

 

翻って、2020年に行われる、東京で二度目のオリンピックは、

我々日本人に、いったいどんなレガシーを残してくれるのでしょうか。

 

オリンピックの開催前と後で、

我々の暮らしは、いったいどのように変化するのでしょうか?

 

ちょっと立ち止まって、考えて見てください。

なんでしょう、こんどのレガシーは。

新しく建設される、国立競技場でしょうか?

 

ん~、なんか、そうじゃない気がしませんか?

 

国立競技場が新しくなっても、我々の暮らしには影響があると思えません。

 

・・・そういう視点で周りを見回すと、ふと見えてくるものがあります。

2020年開催の東京オリンピックのレガシーは確実にあります。

しかし、それは物理的なものではないのです。

 

今度のレガシーは、「法律」だからです。

 

 

日本は「安全な都市である」という売り文句で、

オリンピックの開催を勝ち取りました。

 

しかしなぜか、オリンピックの開催に向けて、

「テロ対策」という名目でたくさんの法律が作られました。

 

共謀罪特定秘密保護法

大きな視点で言えば、集団的自衛権もテロ対策と言えます。

 

そして、次に控えているのが、非常事態条項と、憲法改正です。

 

「え?」と思いませんか?

 

残念ながら、それらが、

2020年のオリンピックのレガシーです。

 

オリンピックに必要だと言われて、

深く考えずに、そうなのかなと思って、

テロ対策の法律を作ることに賛成していたら、

オリンピックが終わってみると、それらの法律が

テロリストではなく、自分たちに向けて行使される。

 

テロという存在は、実は権力者がその支配体制を構築するには、

ものすごく便利な存在なのです。

 

テロリストは、一般人の中に紛れ込みます。

 

だから、一般人の中から見つけ出す必要がある。

そうすると、監視の目を一般人に向ける必要がある。

 

ふつうは自分に監視の目が向くというのは堪え難いことですが、

テロを恐れる気持ちを持つがために、

監視をしてくれ、と権力者に自ら懇願してしまう。

 

そういう構造を作り出すことができる。

それが「テロ」というものの特徴なのです。

 

権力者は、市民を守るため、という名目で、

他ならぬ市民を監視し、市民の権利を奪い、

市民をより効率的に支配することができるようになってしまうのです。

 

問題は、恐怖心に煽られた市民には、

本当は自分が守られているのではなく、監視・支配されているのだ、

ということに気づかない、というところなのです。

 

 

2020年のオリンピックが終わった後、

日本人たちは、日本国民としての自分の立場の変わりように

驚くことになるでしょうね。

 

いや、そのときになってさえ、何にも気づかず、

驚きさえしない可能性もあります。

その可能性の方が、高いかも知れませんね・・・・。

 

日本人は、悲しいレガシーを背負って生きて行く道を

このまま自ら選んでしまうのでしょうか・・・。

 

負の遺産を持たされるくらいなら、

オリンピックなどいらない、という本音をつぶやきそうになる、

今日この頃です。