TKMA’s diary

手遅れになる前に、世の中を変えないといけない、とずっと考えている40代半ばの2児の父です。こちらのブログには、自身のフェイスブックに書いた文章を保存・閲覧することを目的にしています。

明治時代を、どう定義するのかが重要です。

この正月、久しぶりに母を我が家に招きました。

母は私に似てとても話好きなので(いや、私が母に似たのでしょうが)、

夜遅くまでかなり話し込みました。

 

何について話したかは、後述します。

 

母は戌年なので、今年、年女で、つまり72歳になります。

自他共に認める歴史好きで、今風に言えば「歴女」。

今は区の主催する歴史講座を受け持っていて、

歴史好きに歴史を講義する、ということを仕事にしています。

 

その講義の分野は、幕末史。

 

江戸時代が終わって明治、つまり近代史が始まった頃の話ですね。

 

「勝てば官軍」と言いますが、今の日本の近代史は

日本最後の内紛(戊辰戦争)に勝った側によって書かれた日本史なので、

明治新政府を作った人々のことを「国士」とか「明治志士」と呼び、

彼らを志の高いヒーローとして描いています。

 

が、近年では、負けた側からの歴史観も多数明らかになり、

今まで言われて来たことが、必ずしも正しくはなくなっている、

という話を聞かされました。

 

勝った側にも、負けた側にも、歴史は存在する。

 

まったくその通りですし、ある意味、当たり前のことですよね。

 

 

話し始めると話が長い母に対して(人のことはまったく言えませんが)、

今回、最初に切り出したのは私でした。

 

その質問は、「明治維新をどう思っているのか?」ということ。

 

明治維新をどう解釈しているのかによって、

現代をどう見るのか、ということまでがあらかた決まってしまうからです。

 

母は昔から、明治の国士たちを「立派だ、立派だ」という人だったので、

明治史観がとても偏っており、私はいつもとても不安な気持ちでその話を聞いていたものです。

 

なぜなら、そこに「庶民の視点」がないからです。

 

室町時代奈良時代ならいざ知らず、

近代史となれば、それは「いま」と直接的に繋がっています。

 

となると、我々が歴史を学ぶときに必要な視点は、

「我々とどう関係があるのか」ということに他なりません。

 

明治元年はたった150年前です。

 

そのとき、私のような庶民はどう暮らし、どう死んでいったのか。

 

その視点がないのであれば、歴史は小説と変わらない、

ただのドラマに過ぎません。

少なくとも、私はそう思っています。

 

天皇がどう判断した。

その結果、国民はどうなったのか。

 

政府が何かを決めた。

その結果、国民はどうなったのか。

 

軍が行動した。

その結果、国民はどうなったのか。

 

それこそが重要なことなのです。

なぜなら、国士ひとりの命の重みと、

そのときの庶民ひとりの命の重みは、実は変わらないからです。

 

当時は、命の重みに差があったのですよ。

もちろん、それは知ってます。

 

でも、実はその重みに差はないのだ、という発見こそが

「人権意識」というものなのであり、

人権意識こそが、戦前までと戦後を決定的にわけているものなのです。

 

人権意識とは、度重なる戦争の末にたどり着いた、

いってみれば人類の種としての進化なのですよね。

 

いま、我々は人権意識のある時代を生きています。

なので、いまの視点から庶民に人権のなかった時代を想像し、

二度と同じ時代がこないように気をつけなければいけないのです。

 

それは、種としての退化を表しているからです。

 

 

そんな母も、今は反対側からの視点を持つように心がけていて、

とても安心しました。

 

けれど、もうひとつだけ、感じたことがあるのです。

それは、せっかく幕末史を勉強しているのに、

その知識が「いま」に繋げられていないのでは?ということ。

 

そもそも薩長土の人々は本当に天皇を崇拝しているのでもなんでもなく、

自分たちが支配者になるために天皇を利用しただけでした。

 

江戸幕府天皇は対立関係にあったわけでもないのに、

そこに対立軸を生み出し、自分たちが皇軍なのだという嘘をついて、

幕府側を追い詰めていった。

 

つまり彼らは、目的を達するためなら、

どんな嘘をついてもいい、どんな卑怯な手を使ってもいい、

という考えを持っているわけで、そういう彼らの性格を知っていれば、

いまの安倍政権の戦い方も腑に落ちるし、

今後のストーリーも予測できるというものです。

 

 

いまこの国で起きていること。

 

それは、こういうことだと、私は思います。

 

かつて日本を独裁国家にすることに成功した長州や土佐の末裔が、

かつて天皇を利用してこの国を支配するために作った憲法や法律を取り戻し、

国民主権基本的人権の尊重、平和主義を無き者にして、

日本を再び明治の頃の体制に戻す、ということ。

 

それが、いま、日本が向かっているベクトルです。

それを国民がどれほど認識しているか、ということ。

政府がとってきた愚民政策のせいで、国民は政治的思考を骨抜きにされています。

 

政治家がやりたい放題にできる国づくりが、成功しているということです。

 

私の言っていることが、「陰謀」とか「たわごと」とか、「考えすぎ」に聞こえたなら、

ぜひ考えてみていただきたいのです。

 

なぜ安倍晋三が明治を賛美するのかを。

 

なぜ安倍晋三は、戦後レジームからの脱却と唱えるのかを。

 

戦後レジームとは、そもそも、いったい何なのかを。

 

ひとつ答えます。

自民党、安倍政権の言う戦後レジームとは、

国民主権、平和主義、基本的人権の尊重」のことです。

 

日本国民を日本政府の暴力から守っているこれらのことを、

とっぱらってしまうこと。

これこそが戦後レジームからの脱却です。

 

そのために、すでに実行に移されたのが、特定秘密保護法であり、

集団的自衛権であり、共謀罪

そしてこれから行われようとしているのが、

憲法改正であり、非常事態条項なのです。

 

国民はいつまでも眠っていると、目を覚ましたときにはこの国は

近代国家とは思えないような構造の国になってしまうのです。

 

残念ながら、これは本当なんです。

 

 

私がショックだったのは、幕末史が好きな母が、

今の憲法改正問題も、原発問題も、なんにも知らなかった、ということです。

 

思幕末史が大好きな人が、「明治憲法」や「教育勅語」の内容を知らない。

 

いまの憲法改正問題は、実は明治憲法復元問題なのだ、ということを知らない。

 

安倍晋三教育勅語の使用を認めたことを、知らない。

 

歴史で起きたことを、現代に置き換えて「教え」にしないのであれば、

歴史は所詮、小説に過ぎません。

 

小説も映画も、歴史学さえもが

プロパガンダに使われてきたという事実を見ていない、

ということになってしまうと思うのです。

 

 

我々、日本人が前後にやらなければいけなかったことは、

日本の近代史を客観的にみて、

明治時代を定義づけることだったのでしょう。

 

明治時代は、それまでのお侍さんの時代を終わらせ、

着物の時代を終わらせ、

国を急激に近代化させた時代だと認識されています。

 

それは、とてもポジティブな印象です。

 

しかし、実際に行われていたことを今風に言うなら、

日本を政教一致の独裁戦争国家に作り変えた、ということなのです。

 

明治以降の日本は、神道という宗教の長である天皇を独裁者として、

10年ごとに外国と戦争を繰り返す、

今で言う北朝鮮とアメリカを足して二で割ったような国だった。

 

けれど、そういう客観的な認識を持つ日本人は少ないですよね。

 

ドイツの人に、「ナチス」がどのように定義づけられているかを質問すれば、

きっと独裁国家とか、侵略戦争国家という言葉が出るはずです。

 

年の初めの挨拶に、ドイツの首相が、

「今年はナチス誕生から○○年の記念すべき年です」なんて発言したら、

大問題になるでしょう。

 

明治時代の日本は、

自らを大日本帝国と名乗る「独裁戦争国家」だったにも関わらず、

国民がそう認識していないために、

右傾化した総理大臣が年初の挨拶で

明治維新から150年だからと、明治を賛美しても、誰も何も言わない。

 

独裁戦争国家を賛美しているのと同義であるのに、です。

 

ウーマンラッシュアワーの言う「国民の意識の低さ」は、

こういうところにも出ているのだと痛感するのです。

 

 

戦(いくさ)とは、いつも勇ましく語り継がれるものです。

誰もそれ全体を指して「愚かな行為」とは言いません。

 

その根底に、「相手が攻めてきたのだから仕方がない」的な思考回路があるはずです。

 

好きでやったわけではない、という言い訳です。

 

しかし、私は、どんな理由であれ、戦争を肯定する立場を取らない、

平和国家・日本の一国民として、

過去に起こったすべての戦争に対して、

そしてこれから未来に起こるすべての戦争に対して、

「完全に愚かな行為である」と主張しつづけたいと思います。