TKMA’s diary

手遅れになる前に、世の中を変えないといけない、とずっと考えている40代半ばの2児の父です。こちらのブログには、自身のフェイスブックに書いた文章を保存・閲覧することを目的にしています。

「今がそのときである」と認識する。

昨夜、私の仕事の上司から連絡があり、

義理のお母様が「オレオレ詐欺」に遭ってしまったと。

 

その人はオレオレ詐欺撲滅のための

啓発コミュニケーションを担当していた人で、

居を共にしている義理の親とも、

当然、オレオレ詐欺に対する防犯対策はしていたことと思います。

 

それだけに、「非常にショックだ」という心境を話されていました。

 

気持ちはよくわかります。

けれど、このエピソードから感じ取らなければいけないことは、

「意識の持ち方」なのではないかと思うのです。

 

お母様は、おそらく対策をとり、

騙されないように意識もしていたはずです。

けれど、いざ、本当にそういう電話がかかってきたときに、

それが自分の息子だと信じてしまった・・・・。

 

この事象は、練習のための練習、

避難訓練のための避難訓練をしてしまっていた、

ということが、結果的に明らかになった、

ということだと思うのです。

 

 

何かに備えて準備をする、ということは、多くの人がやります。

が、その準備していたものの力を発揮するタイミングについて、

「今がそのときなのだ」ということを意識できる人は

とても少ない。

 

ですから、私も何も偉そうに言うつもりはなく、

私自身も、同じ状況になったら騙されてしまう可能性を感じるのです。

 

そうならないためには、どうすればいいのか。

どう意識していればいいのか。

 

 

先日、福島県浪江町に行ってきました。

浪江町は、現在、人が住むことができる場所としては、

もっとも福島第一原発にちかい場所です。

 

案内をしてくださる方に、

「せっかくだから、イチエフを見に行って見ますか?」とおっしゃっていただき、

私は生まれて初めて、この目で福島第一原発を見ました。

 

震災の後、福島沿岸部には何度も足を運んできましたが、

イチエフを見たのは初めてでした。

 

遠くに煙突が見えただけなのですが、

それでも、何かとても感慨深い気持ちになりました。

言葉に表せないのですが「ついに」というような気持ちです。

 

イチエフが見えたのは、海の間近にある一本道で、

振り返ると放射性廃棄物の瓦礫が入った

あの黒い袋がうずたかく積まれています。

 

その道に行く前に、実は沿岸部を見下ろせる高台に登りました。

そこから海まではいちめん茶色く枯れた雑草が生えているだけです。

建物は何もありません。

その向こうに、本当に海のキワのところに、

今は使われていない小学校がありました。

 

高台から見ると、だいぶ遠い場所です。

 

案内をしてくださる方がいいました。

 

「震災のとき、あの学校の先生が生徒たちを、

この高台まで走って誘導したから、

一人も犠牲にはならなかったんです」と。

 

その話を聞いた時、胸がいっぱいになりました。

なんて素晴らしい判断なのだと、

その先生に対する尊敬の気持ちが押し寄せました。

 

地震があったあと、おそらく被災したその場所では

あまり情報がなかったと思います。

そんな中で、全校生徒を「走って」高台まで避難させたのです。

 

「今がそのときだ」という意識が持てていたのでしょう。

 

その後、在りし日のその場所の空撮写真を見ると、

今は何もないその一帯が実は家々が密集する町であったことを知りました。

すべて流されてしまったと。

 

子供たちが助かったことの重みを、さらに強く感じました。

 

 

どんなに事前に備えていても、

その準備したものを発揮するのは今だ、

という意識を持てなければ、すべて無駄になってしまいます。

 

その意識を持つには「自分は騙されないだろう」と考えたり、

「まだ大丈夫なんじゃない?」などと思わないことです。

 

人間の性能というのは、緊急事態や、

非常事態のときほど試されるものです。

 

普段、どんなにリーダーシップを発揮しているように見える人でも、

本当に切羽詰まった時に冷静に決断したり、

物事を有効に前に進める思考ができなければ、

その人の人間性能はそれほど高くはないのだと思います。

 

今、ちょうどある本を読み終わりました。

福島第一原発1号機冷却「失敗の本質」』という本です。

 

その中に、当時の吉田所長の人柄を感じさせる、

こんなエピソードが紹介されていました。

 

原発3号機に水素爆発の危険があったため、

吉田所長は所員の退避を命じたが、

その後、原子炉の圧力が下がったため、

東京の東電本店から、再び人員に現場に戻るように指示がでます。

 

吉田所長は所員の命の危険があるので抵抗しますが、

本店との議論の末、仕方なく退避指示を解除します。

しかし、その後、所員が現場に戻ると3号機が水素爆発を起こし、

一時、40人あまりが行方不明となった。

 

結果的に全員無事とわかり、「仏様のお陰としか思えない」と

吉田所長は語ったそうです。

 

このエピソードは、そのあとに起きたことです。

ここから引用します。

 

 

しかも、このわずか1時間後には、2号機の冷却機能が失われ、

吉田は、免震棟の円卓前に部下を集め

「本当に申し訳ないが、もう一度頑張ってほしい」と

2号機周辺で作業を行う志願者を募らなければならなかった。

そして何人もが「自分が行く」と自ら手をあげるのである。

(引用ここまで)

 

 

爆発するかもしれない危険な原発のところに、

もう一度行ってくれと言われた時、「自分が行く」と手をあげた・・・

そのとき彼らはどんな気持ちだったのだろう。

 

多くは、地元・福島の人々だと思います。

 

想像することしかできないけれど、

「自分がやらなければ」という強い使命感を感じたのでしょう。

 

吉田所長の、ブレない人間性が、

一人一人の作業員に「今がそのときである」という

意識をもたせたのだと思います。

 

 

人はそれほど強くないものです。

けれど、意識をしっかり持つことによって、

力を発揮すべきタイミングというものを認識できるようになります。

 

「いつか」ではなく、

「今がそのときだ」と意識すること。

 

それだけで、きっと人生は何倍もの価値を持つようになるのでしょう。

クリエィティブは、社会のアンテナの役割を果たす。

「クリエィティブな人」というのがいますね。

私の定義は、「創造性のある人」とか「想像力のある人」
あるいは「優れた感受性を持った人」です。

一般的には「ものづくり」をしている人のことを指すように思いますが、
職業的に「クリエイター」と呼ばれる人でなくても、
クリエィティブな思考回路を持つ人はたくさんいます。

絵描きだろうが、ミュージシャンだろうが、
数学者だろうが、憲法学者だろうが、
鋭い感受性を持って情報を吸収し、
創造性をもって思考する人々。

ここではそういう人を総称して、
クリエィティブな人と呼んでいます。

さて、クリエィティブな人って、
具体的にはどんな人のことでしょうか。

私が思うには、例えばこんな人です。

子供の頃に映画を観て、感動した、という経験は
多くの方が持っていることだと思います。
しかし、その中の一握りの人が、
「自分もこういうものを作りたい」と感じる。
そういう人。

与えられたルーティン業務でも、
なにか「もっと良くなるんじゃないか」と考えて、
つい創意工夫してしまう。
そういう人。

何かの構造を見たときに、
「どうしてこうなっているんだろう?」と
考えてしまう人。
そういう人。

ある現象の予兆の段階から、
この状態がつづくと、いずれはこうなる、という未来図を描ける人。
そういう人。

物事の原因のさらに原因をさぐり出そうとし、
そこに普遍的な公式を導き出そうとする人。
そういう人。

つねに頭を使い、心で感じ、
それをなんらかの形でアウトプットしようとする人。
それがクリエィティブな人だと思います。

なぜ、いま、「クリエィティブな人」について語るのか、というと、
クリエィティブな人には、ある一定の特徴と、
そこに起因する社会的な役割があると感じているからです。

彼らは「想像力」や「感受性」が高い傾向にある、ということですが
で、あるからこそ、彼らは「社会のアンテナ」の役割を果たし、
かつ、クリエィティブでない人々に気づきを与えられるように
情報を「翻訳する」役割があるのだと思うのです。

最近、ようやく、
現政権に対してミュージシャンやクリエイターの人々が
声を上げる傾向が目立って来ましたね。

彼らがこぞって動き出すという現象は、
シグナルであると解釈すべきなのです。

感性の高い彼らは小さな情報から
大きな未来を思い描くことができますから、例えるなら
「火事になったら最初に逃げていくネズミ」みたいなものなのです。

彼らはネズミのように逃げ出すわけではなく、
なんらかのメッセージを発して我々のような普通の人間に向けて
「はやく気づけ!」と警告をするわけですが。
それぞれの得意な表現方法を使って。

ある人は歌い、ある人は書き、ある人は映画を作り、
またある人は語ったりしながら、私たちに気づきを促している。

周りを見て見てください。
現政権に異を唱えている人々。
宮崎駿さんや、吉永小百合さんや、倉本聰さん、
沢田研二さんや、吉川晃司さんや、
生きていれば忌野清志郎さんや、
事態を知ればJohn Lennonもまちがいなく発信していたでしょう。

他にもたくさんいますが、
こういう面々を見て、皆さんはどう感じるのでしょうか。

「あぁ、この連中は左翼だもんな」くらいに思うのでしょうか?

私は、非常にすぐれた見識を持った、
考えの深い方々だと思っています。

こういう「優れた感性を持った人々」が、
同時に社会に対して騒ぎ出しているという現象は、
野生動物が天変地異の予兆を察知して、
まだ何も起こっていないように見えるのに
大慌てで逃げ出しているのと同じような現象なのですよね。

彼らは社会のアンテナであり、警告ランプなのだと思うのです。

いま、政権に対してメッセージを発信しているのは、
そういう人たちの中でも「勇気ある人々」です。

理由はふたつあって、ひとつは、
現政権がメディアをコントロールする戦略に乗り出しているので、
権力に楯突く彼らは、今後メディアから干される可能性があり、
それはつまり仕事をなくす=食っていけなくなるという
リスクをはらんでいること。

もうひとつは、初期の段階で声を上げる人というのは
周囲から奇異な目で見られがちであったり、
あるいはこの声が大きく育たなかった場合、
ハシゴを外された形になって孤立無援になる可能性があるからです。

しかし、クリエィティブな性能を持ってこの世に生まれた人は、
実はみんなうっすら気づいているはずです。

この動きを、大きく育てていく推進力になるべきなのは、
自分たちであるということを。

いま、私たちに問われているのは、
「生き方」なのじゃないでしょうか?

このまま、この流れに任せてしまって、
私たちは、いつかやってくる自分の命が尽きるその最後の瞬間に、
「これで良かったのだ」と納得できるのでしょうか?

自分を許せるのでしょうか?

悔いは残りませんか?

未来は変えられますよ。
我々が、本気で望みさえすれば。
社会も変えられるし、安倍政権なんて、簡単に変えられます。

だって、私たちはこれから、地球というこの惑星を救うという、
もっともっと全然大きなテーマに立ち向かうんですよね?
みんなで力を合わせて。

でないと、未来はないですから。
ですよね?

じゃ、くだらないことで時間を無駄にするのは、もうやめましょう。
さっさと片付けて、本当のお題に取り掛からないとね!

人の気持ちになることの、難しさ。

先日、とても面白いこと現象を体験しました。

 

仕事で、いわゆるLINEスタンプ、というものを考える機会があり、

その打ち合わせでの席上のことです。

 

こちらとしても、企画スタッフが、

いつ、どんなときに使えるスタンプか、

ということをよくよく考えた上でスタンプ案を考え、

それを提案しているわけですが、

それを見たある方が、こういうのです。

 

「こんなの誰も使わないよね~」

「おはよ~!なんて、私、誰にも送らないし」

「ありがとう!じゃなくて、ありがとうございます!なら使うかな」

「遅れてます!は飲み会のときにみんな使いそう!」・・・・

 

私はそもそもLINEをほとんどやらないので、

自分ではスタンプを送ったこともなく。

なので、使う人の会話をただ傍観者的に聞いていたわけです。

 

そこでのやりとりが

「こんなの使わない」「私は使う」「この言い方だと不便」とか

完全に一使用者でしかない「自分の主観」が、

まるで全世界の常識であるかのような、意見のぶつけ合いなわけです。

 

まぁ、ある程度は仕方ないにしても、気になったのが、

自分の意見をまったく譲らない、というスタンスなんですよね。

 

LINEというのは、まぁ、グループで使用する場合もあるけど、

基本的には特定の誰かとの、二人きりの会話なわけですよね。

だから、そこでどんな会話をし、どんなスタンプを使うか、というのは、

まるで密室の出来事のように、その二人だけのものです。

 

それはまるで、トイレでお尻を拭く時、どうやっているか、

みたいな問題なんですよね。

 

みんな毎日自分のお尻を拭いてると思うけど、

そのやり方について他人と共有することはないわけです。

しかも、他の人がいったいどんなふうにお尻を拭いているかは

自分とはまったく関係のないことであって、

自分だけの常識が世界基準でいいわけです。

 

LINEも同じですよね。相手がいるにしても、

その人が仕事仲間なのか、恋人なのか、家族なのか、

上司なのか、部下なのか、立場によってすべて個別です。

 

それが、使用する人の数だけ存在するわけなので、

ある人にとってはメインで使用するものが、

別の人にとってはまったく使わないものだったりするわけです。

 

だから私は「へぇ、そういうふうに使うんだ」なんて感じに

興味深く聞いていたわけですが、

どうしてそこで「そんな使い方しない」という言い方ができるのか。

 

ちょっと理解に苦しみました。

 

こんな小さなところから、他の人の気持ちや立場になってみることって、

人間にとって、ものすごく難しいことなのだなと、改めて思いました。

 

 

今朝、NHKのニュースでかつて有名だったベトナム枯葉剤が原因となって

障害をもって生まれてしまった、ベトちゃん・ドクちゃんのうちの一人、

ベトさんが出ているのを見ました。

 

彼らはそれぞれの上半身に、ひとりぶんの下半身、という形で生まれ、

とちゅうで分離の手術をしたことで有名です。

 

で、ニュースの中で、ベトナム戦争の時に米軍がベトナムの森に

枯葉剤をまいた当時のシーンが映し出されました。

 

その場所では、今でも手足のない子供が生まれたりしていて、

被害は、戦争は、現在でもつづいている、という内容でした。

 

ベトナム戦争当時、ジャングルの中に潜むベトコンに苦戦した米軍が、

そういうことなら森ごとなくしてしまおう、ということで

ベトナムの山林に広範囲に除草剤をまきました。

その薬品の影響でベトナムでは奇形の子供がたくさん生まれるという事態が起き、

先述のベトちゃん・ドクちゃんもその例だったわけですが、

こんなひどい作戦をどうして立案し、実行できたのか、といえば、

アメリカ人にとっては、ベトナム人がどうなろうと、

まったく関係ないと思うことができたからですよね。

 

他人事なのです。

 

自分の娘が生んだ子が、この作戦の影響で奇形の子だったら、

きっとアメリカ人も黙っちゃいないのでしょう。

 

しかし、数十年前にアメリカが実施した戦争の作戦で撒かれた除草剤の影響で、

手足がなく生まれた子は今も実際にいて、

その子たちは一生、手足がない人として生きていくのです。

 

それは奇形の一例かもしれません。

けれど、その本人は「一生」なのです。

ずっとその人生を送ることになるのです。

 

そういうふうに考えてみることができなければ、

人は自分ではない人間に対して、どこまでも冷酷になれてしまう可能性があります。

 

 

先日、ミュージシャンの小室哲哉さんが

「不倫」と報道されたあげく、引退を表明されました。

 

彼の奥様であるKEIKOさんは、ショービジネスの世界で活躍され、

小室さんと結婚したあと、くも膜下出血で倒れ、その後遺症で

高次脳機能障害を患っています。

 

小室さんは彼女の過酷な介護のかたわらで

音楽活動をつづけていたようです。

 

とあるブログで、KEIKOさんと同じように父親が高次脳機能障害となり、

その介護に苦しんだ方の体験談を読んだのですが、

そこに書いてあったのは、

介護する人にも心のケアが必要であるということでした。

 

そういう状況の中で、それが有名人・小室哲哉であってもなくても、

一人の人が、自分が潰れてしまうのを防ぐために、

周りに精神的に助けを求めてしまうのは、非常によくわかるとありました。

 

「小室さんに、とても共感する」と。

 

そういうことを、おそらく何も知らない無責任な記者が、

「不倫」という言葉で出来事をセンセーショナル化しようとする。

ほんのいっとき、人の気を集めるために、

名のある人の弱みを過剰な形で暴露し、貶める。

そして、世の中も、その無責任な言葉を鵜呑みにする。

 

この構造全体に対して、やはり私は何かを感じざるを得ない・・・。

 

人間が、自分ではない別の人の気持ちになって見ることの難しさです。

 

社会から「思いやり」が失われていく。

その喪失感ですね。

 

自分の立場を守るために、他人を貶めるような噂を流す人って実際にいます。

「○○はこんなことをする酷いやつだ」という内容です。

でも、私は、誰かのへんな噂を聞いても、

「本当にそうなのだろうか」と思う気持ちを捨てたくないです。

 

そして、噂を鵜呑みにして、よく知らない人を「酷いやつだ」と言うよりも、

なぜそういうことが起こったのか、ということに着目して、

同じことが二度と起きないようにするにはどうしたらいいのかを考えたい。

 

そして、当人には、不当な噂が流されたことに対して、

「さぞ、しんどかったろうね」とだけ、

言葉をかけてあげたい。

 

 

私は、人間はもっと心豊かな生き物だと信じているのですが、

ただの妄想なのでしょうか。

 

人間は、誰もが一人にひとつ、心を持っています。

その心を満たしていくことこそが、人生の意味なのではないかと思っています。

 

スティーブ・ジョブズも、最後は気づきました。

人生の中で、いったい何が大切なのかを。

 

しかし、彼は気づくのが遅すぎた。

もっと早く気づいていれば、

彼は世の中にイノベーションは起こさなかったかもしれないけれど、

もっと幸せな人生を送ることができたのでしょう。

 

どんなにイノベーションを起こしたところで、人はいつか死にます。

功績をあの世に持っていくことはできません。

死は誰に身にも、平等にやってくるのです。

 

そうであれば、ただ生きている時間を幸せに過ごすことこそが

最大の目的になるはずなのです。

 

幸せというのは、「達成」したり、「到達」するものではありません。

幸せとは、「状態」のことを指します。

幸せになりたいと思うのはやめて、

いま、自分がすでに幸せであることに気づけばいいだけなのです。

 

幸せって、自分のことを満たしている間は

どこまで追いかけても振り向いてくれないものだと思います。

 

自分以外の誰かに向けて何かを費やしたことに、

あなたの心の中に幸せはやってくるのじゃないかなぁ。

 

私はそう思っています。

憲法改正議論に向けての、アタマの整理。

改憲・護憲・加憲・護憲的改憲・・・

 

最近、憲法改正を巡って、

さまざまな意見や方法論が唱えられるようになっていますが、

当の国民は未だに大多数が無関心層のようです。

 

いま、日本人がすべきことは、憲法に関して知識を増やして、

「自分はどうしたいのか?」という自分なりの考えを

明確に持つことだと思うので、

今日は私の悩みも含めて書き連ねてみたいと思います。

 

何かを考えるきっかけになれば、と思います。

 

 

まず、現状の分析なのですが、

国会では「憲法改正派」が改憲発議ができる2/3の議席を持っていて、

いま、事実上、」「憲法改正案」を提案できるのは、

自民党とその一派に限られています。

 

今回の憲法改正で大きなテーマになっているのが、

戦争放棄を謳った憲法9条をどうするか」ということです。

 

いま、自民党からは二つのアイデアが提示されています。

 

ひとつは「自衛隊国防軍にする」という案です。

そしてもうひとつは、安倍総理が突如提案しうたもので、

現状の1~2項からなる9条を維持したまま、

3項を追加し、そこに自衛隊の存在を明記する、というものです。

 

ふたつに共通するのは、「日本に戦力があることを認める」ということです。

 

 

自衛隊」と「国防軍」はなにがちがうの?と思うでしょうか?

思っていただきたいです。

 

日本に「自衛隊」という「軍らしきもの」があることは世界中が認識しています。

海外からは「軍」に見える実力組織ですが、

日本人は、これを「軍ではない」と言っています。

 

そこに意味があると感じるか、無駄なことだと感じるか?

 

私は「大きな意味な意味がある」と感じています。

日本の自衛戦力のことを「軍」と呼ぶか、「自衛隊」と呼ぶかは、

完全に日本人の意識の問題であって、外国人は関係ありません。

 

そして、自衛隊を「軍」と呼んだ瞬間に、

さまざまな「自制」のタガが、法的にも、意識的にも外れていくことになります。

 

中には「国を守るための国防軍なのだから、自衛隊と同じでは?」

と思う人もいるかもしれませんね。

 

しかし、世界中にあるすべての国の軍隊が、「国防」を大義名分に存在していて、

決して「侵略軍」などないことに注目してください。

国防軍」というのは、単なる詭弁であって、それはもう「日本軍」なのです。

 

この国は、自衛隊が「軍」ではないということを理由に、

自衛隊に非常に不自由な行動を法的に強いています。

しかし、そのことこそが、日本が実力組織を持っていながらも

諸外国に不安を与えていない原因でもありますし、

武器を持っていても行動を自制することができる根拠になっています。

 

安倍晋三さんが、かつて自衛隊のことを「我が軍」と

呼んでしまったことがありましたが、

これは、平和国家日本としては、実は非常に大きな大きな出来事なのです。

 

 

では「すでに実在している自衛隊憲法に明記する」という

安倍晋三さんの案はどうでしょうか?

 

憲法9条に「解釈」の問題がついてまわるのは、

憲法そのものの中に戦力を持つ定義がなされていないことが原因なので、

そこに自衛隊を明記することによって、「自衛隊が何をできるのか」を

明確に決めることができるようになる可能性があります。

 

安倍晋三さんの狙いはそこです。

 

最近では「護憲的改憲」という考えを主張する人々もいて、

(私もその中の一人かもしれません)

自衛隊憲法に明記することによって、

自衛隊が何をできないのか」ということを明確化させる、

という効果も期待でき、その場合は現状の平和主義を

さらに強固なものにするための改憲、という意味になります。

 

 

こう考えると、「護憲的改憲でもいい」と思えますよね。

それでも護憲派は「憲法への自衛隊明記は絶対ダメ!」と言います。

なぜだと思いますか?

 

実は、こんな事情があります。

 

今の日本では国民を本人の意思に関係なく軍に入隊させる

「徴兵制」は絶対にやることができません。

それは、日本国憲法で、国民が意に反する苦役をさせられることは

絶対にないと決められているからです。

 

憲法の中には自衛隊の「じ」の字もないですから、

本人の意思に関係なく無理やり自衛官にさせられることなどないのです。

 

しかし、同じ憲法の中に「自衛隊」が明記されるとどうなるか?

憲法自衛隊の存在を明確に認めたことになります。

 

そうすると、国民が自衛隊に入隊することは

「苦役」ではなく「公共の福祉」という位置付けに変わるのです。

自衛官になることが苦役でない以上、

法的に入隊をルール化すること、つまり徴兵制を導入することも

まったく問題なくなってしまうのです。

 

こういう「人権無視」が引き起こされる可能性があるため、

自衛隊憲法明記」にも反対する人がいるのです。

 

あなたはどう思いますか?

徴兵制は、あなた的にOKでしょうか?

 

 

もうひとつ、護憲的改憲であっても、

憲法をいじってしまうと危険になる可能性があることがあります。

 

それは、「日米地位協定」の問題です。

 

これは、残念ながら「陰謀論」でもなんでもなく、

現実の問題として、日本は戦後70年以上が経った今でも、

事実上、アメリカに占領されているのです。

 

沖縄や横田基地など、国内のいたるところに米軍の基地がある

というような具体的・限定的な意味だけでなく、

日本はアメリカ軍と官僚との間で戦後70年ずっとつづいている

協定としての支配体制があって、

日本はアメリカという国家というより、アメリカ軍に対して

主権を持っていない状態なのです。

 

米軍の人間が沖縄で航空機を墜落させても、

女性をレイプしたり、人殺しをしたとしてもほぼまったく罪に問われないのは、

日本という国が米軍の治外法権を認めているからであって、

これは、ちゃんと結ばれた約束事なのです。

 

それを日本人が知らずにいいて、

自分の国を、ちゃんとした主権国家だと思い込んでいるだけなのです。

 

そして、その協定(日米地位協定)は、

日本国憲法よりも重要だという位置付けになっているんですね。

その結果が、「米軍の日本駐留は違憲である」という東京地裁の判断を

最高裁が「そのような問題についての違憲かどうかの判断はしない」として覆した

砂川判決というものなわけです。

 

日本という国には日本国憲法が存在はしているものの、

それよりも上位の概念として「米軍との約束事」がある、ということ。

そこに手を出すものがいれば、たとえ総理大臣でも、

あっという間に消されます。

 

沖縄基地問題に手をつけようとした鳩山さんがそうであったように。

 

しかし、その約束事は、一般的な日本国民には知られていないことなので、

米軍の言われるがままに日本政府が振る舞うことは

憲法違反である」という国民からの反対意見が出てしまう。

 

そこをかわすためにも、安倍晋三さんと彼の政府、そして自民党には

憲法を改正して、日本という国そのものを米軍の傘下にいれてしまうことが、

とても重要なことなのです。

 

ちょっとわかりにくくてすみません・・・・

 

つまり安倍晋三さんという人が目指す日本は、

軍事的に完全にアメリカの属国になることで自分の居場所を見出し、

明治憲法を復活させて日本国内を支配する、という、

「アメリカが許してくれる範囲の中での帝国」を作りたい

ということなのでしょうかね・・・。

 

これのいったいどこが「戦後レジームからの脱却」なのでしょうね。

むしろ戦後レジームの完成、という方が正しいです。

 

で、このような日米間の不当な関係があったにも関わらず、

70年もの間、なんとか戦争をせず、

アメリカの言いなりにならずに持ちこたえられたのは、

この国に「アメリカから押し付けられた憲法9条」があったからなのです。

 

日本は、戦争協力を迫ってくるアメリカを

9条を盾にして、のらりくらりとかわしていく、という戦法をとって、

この国の平和を維持してきたという現実がある。

 

9条は幣原喜重郎さんが考えた、という意見もあります。

それはそれでいいでしょう。別に否定はしません。

とにかく、日本に9条があったことが、

最後の砦になっていた、というのが現実なのです。

 

その9条を手放す、あるいは有名無実化するということは、

もうこれ以上、アメリカの戦争政策に抵抗することはできない、

ということを意味しているのですね。

 

 

私は、この国がアメリカやアメリカ軍からの支配を受け続けることから

脱却したいと考えています。

しかし、そのために核武装をしたり、

大きな軍を持つということではないと思っています。

 

世界の平和に資する行動を積極的にリードすることで、

地球全体からの尊敬を集めること。

それが最大の抑止力になると考えています。

 

日米地位協定をみなおし、安保条約もみなおし、

米軍のいない日本を実現する。

その上で、世界に積極的平和主義を押し広めていく。

 

日本にはそういう国であってほしいと思っています。

あなたが変えられる人は、自分だけです。

今日、ニュースで聞いたのですが、
安倍総理リトアニアの首相と会談し、
北朝鮮に対して圧力をかけつづけ、
政策を変えさせるという方針を確認したと。

NHKのニュースでやってました。

今朝のことです。

細かい文言は忘れたのですが、
「変えさせる」という言葉は、まちがいなく出てきました。

私はこの安倍晋三という人のことが、
もはや哀れに感じるようにさえなってきました。

先日、入手した本で「こどもブッダの言葉」という本があるのですが。
この本は、ブッダが残した言葉をこどもたちでも理解できるように、平易な言葉に直したものです。

こども向けということになっていますが、
大人が読んでも本当に勉強になる本です。

これはあくまでも私の解釈なのですが、
そもそも仏教というのは、宗教というよりも
心理学に近くて、
生きにくい人間社会という中で、
どうやって自分の心と向き合えばいいのか、ということを説明しているものですから、
信じるとか、信じないとかいう問題ではなく、
心というものがどうなっているのか、という、ほぼ物理現象に近いものだと思っています。

真理というやつですかね。

怒りという感情を持つと、どんなことが起きてしまうのか、とか、欲に任せていると、どうなってしまうのか、とか。

嫉妬心や我欲とどう向き合えばいいのか、とか。

で、そこから導き出されるひとつの答えは、「すべては自分の心の問題だ」ということです。

これはもう疑いようもない事実であって、認めて前に進むか、認めないでそこに居続けるか、という二択があるに過ぎません。

認めるには、ある種の覚悟がいるのだけど、認めてしまうと、アタマがスッキリします。

少なくとも、自分が苦しいのは、誰か他の人のせいではなく、環境のせいでもなく、自分のせいなのだ、とわかるからです。

「苦しいのは、ぜんぶ自分のせい。」

難しいですよ。そんな風に考えるのは。
人は、なかなか自分の非は認められないし、
他人を許すことができない生き物ですから。

でも、すべては、自分の解釈次第なのだということに気づくことができれば、世の中の見え方は急激に変化します。

こどもブッダの言葉の中に、
「自分の主人(あるじ)は自分しかいない」
という言葉が出てきます。

そう。苦しい理由が自分であるのも、
自分の主人は自分だけだから。

あなたが苦しいのは、
自分で苦しいことを手放さないようにしているからに他なりません。

なぜ、手放さないのか?

手放すのが嫌だからです。

なぜ手放すのが嫌なのか?

それが人間のデフォルトの感情だからです。

だから、「生きることは苦なのである」という前提が出てくるわけです。
そして、この苦を乗り越えるとは、つまり自分自身を乗り越える、ということなんですよね。

わかっちゃいるけど、難しい。
でも、だからこそ、取り組む価値があるのです。

「自分の主人は自分。」

この言葉から、ある大切な真理がふたつ導き出されます。

ひとつは、「誰も自分以外の人のことを変えることはできない」ということ。

もうひとつは、「自分が変えることができるのは、自分だけ」ということです。

自分が何をやっても相手に変化がないなら、
変えるべきは自分のアプローチです。
そして、相手が自分で変化することを促す。
できることは、それだけです。

そのとき必要なのは、対立ではなく、「理解」です。

これは個人間でも同じだし、国家間で同じです。
自分以外の人の考えを、他者がチカラで変えさせることなど、絶対にできないのです。

それは、人間が、ある一定以上の人生経験を積んだなら、漏れなく理解すべきことであって、そこを理解しないことは、人間としての成長を拒んでいることと同義だと、私は思っています。

国家の責任者という立場の人間が、
「変えさせる」という言葉を使うこと。

日本でも、アメリカでも起きていることですが。

愛情のない今の社会の中では、そんな思慮のない言葉が威勢良く聞こえて、こういうもの言いをすることを「リーダーシップがある」と勘違いする人も多くいるようです。

社会から感受性が奪われていることを感じたます。

権力者が語気を荒げて扇動したことで、人々が幸せになった事例はひとつもないはずです。

安倍晋三さんに、北朝鮮を変えることはできません。
誰にもできません。

北朝鮮を変えることができるのは、北朝鮮だけです。

無理やりミサイル打ち込んだりして、一見、変わったように見えることはあっても、本当は変わりません。

逆に怒りや負のパワーを蓄積させるだけの効果はあるでしょう。そういう負の連鎖をいちばん繰り返しているのがアメリカですが、
今やアメリカは、終わらない負の連鎖を金儲けの手段に生まれ変わらせたので、もはや彼らの目的は決して平和にならない世界の維持です。

その国の近くにいても、望みがあるとは言えません。

どちらにしても、チカラで押さえつけられた負の力が暴発するとき、犠牲になるのは我々一般市民です。

チカラで他人を変えられるというのは、
チカラを持つものの思い込みです。

その事実は、人類の歴史の中で、なんども証明されているはずです。

わかっていながら誤った道に進むことは、愚かなことではありませんか?

忘れないでください。
北朝鮮の人々にも命と、魂があります。

チカラで命は奪えても、人の魂を変えることは、絶対にできないのです。

日本は「普通の国」ではないから、カッコイイのです。

あなたは、自分の個性を大切にしたいですか?

それとも、他の人とできるだけちがわない、「画一性」に価値を見出しますか?

 

言い方を変えてみましょう。

あなた自身ではなく、あなたが「この人はステキだな」とか、

「こんな人になりたいな」という人はどんな人でしょうか。

あるいは、この人は印象に残るな、というのはどんな人ですか?

 

できるだけどこにでもいるような、特徴のない人?

 

それとも、何かひとつだけでも、

「この人らしいな」という面を持つ人でしょうか。

 

それは外見に関わることではないかも知れません。

ブレないとか、意志があるとか、優しいとか、熱心とか、

深くあなたを愛している、とか。

 

要は「他とちがう何か、があるか」ということです。

 

私は、どちらかというと、

その人らしい何か光るものがある人に惹かれます。

 

カッコいいですから。

 

それが外見的なときもあるかも知れないし、内面的なものの場合もあります。

どちらにしても、キラリと光る何かがないと、

「記憶できる」という点でアピールする力は弱いかな、と思います。

 

その人の名前を聞くだけで、連想できる何か。

 

それが、その人の魅力なんじゃないかな、と思うのです。

 

人間関係が深くなると、その人の魅力ってのは

より内面的なものに変わっていくものですが、

第一印象としては、こういうことが言えると思います。

 

 

さて、話を「国」という単位にしてみます。

 

ある国の名前を聞いたときに、

何かを連想する国と、何も思い浮かばない国がありますよね。

 

興味がわく国と、わかない国、とも言えるかも知れません。

 

もちろん原因は単純に知名度が低い、

どんな国か知らない、という場合がほとんどだと思います。

 

では、なぜ「知らない」のか。

 

恐らく、国を形成する要素は一揃い持っているのだけど、

あなたと関係のあることや、

あなたの記憶に残る何かがない、ということなのだと思います。

 

何か、というのは、例えば、

ベルギーと聞くと、

チョコレートとか、ビールとか、

F1好きならスパフランコルシャンとか、

 

インドならガンジス川とか、カレーとか。

 

何か思い浮かびます。

 

いま挙げたような例は、文化的な特徴というんでしょうかね。

どこの国にも必ず何かがあると思います。

 

 

話が少し飛ぶのですが、「国の在り方」や「軍備・国防」

という観点で見たときにも、普通の国と、特徴のある国というのがあります。

 

記憶に残る何かを持っている国と、

もっていない普通の国がある、ということです。

 

ここでいう「普通の国」というのは、

軍を持っていて戦争が起こればそれに参加する国です。

「場合によっては他国と喧嘩することもあるぜ」という国ですね。

 

それらの中には「核保有国」というのがいくつかあって、

特に世界の中で軍事的に発言力を強めたい姿勢がある、と受け取れる国です。

 

でも、「俺たちは喧嘩は強いぞ」とメッセージしているだけで、

まぁ普通の国です。

 

一方で、変わった国としては、

例えばスイスのような永世中立国があります。

永世中立国というのは、戦争をしない国、

という認識を持っている人もいますが、ちがいます。

 

永世中立国とは、絶対に他国とつるまない、と決めている国です。

「中立」ですからね。

 

世界大戦が起きても、AチームにもBチームにも絶対に属さない。

どちらの陣営にもつかないぞ、と表明している、という意味です。

 

なので、もしどこかの国から攻められることがあったら、

例え全世界を敵に回すとしても、一国だけで国を守ると決めている、

ということですので、かなりの軍備を持つことになります。

 

スイスは、そういう国です。

徴兵制もありますよ。

 

でも、大丈夫なのです。

スイスに住む人々は、そういう国の姿勢に合意していて、

それを誇りに思っているからです。

私は、素晴らしいことだと思います。

 

スイスは中立なので、自分たちで戦争をしかけない限り、

どこかの戦争に巻き込まれる可能性はゼロなのですから。

 

しょっちゅう戦争をしたり、しょっちゅう戦争する国と

仲良くしようとしたりする国で徴兵されるのとは、わけがちがいます。

 

ともあれ、スイスは特徴のある、ユニークな国です。

 

 

「国の在り方・国防」という意味で、

一際異彩を放っている国が、もうひとつあります。

 

それが、私たちの国「日本」です。

 

戦争になっても、どこともつるまない、というスイスより、

もっともっと変わった姿勢を表明しているのが、日本なのです。

 

私たちの国・日本は、最高法規である憲法で、

「交戦権の放棄」をしています。

 

これはつまり、どこの国とも戦争をしない、という表明です。

 

すごくないですか?

戦争になっても、どちらの側にもつかない、というのではなく、

「戦争そのものをぜったにしないよ」と言っているのです。

 

そして、世界のみんながそう言えば、この星から戦争がなくなるよ、と。

そういう活動のリーダーになりたいよ、と言っている。

 

それが、私たちの国、日本です。

 

そのようなコンセプトを総称して、

「平和主義」と言っています。

 

こうやって、戦争しない国、

戦争は良くないよと世界に言って回る国、日本は、

万が一、他国から攻められたときに備えて、

最低限の防戦のみを行う自衛隊を持つものの、

日本から他国へ戦争を挑むということは、絶対にない国なのです。

 

めちゃくちゃカッコよくないですか?

 

クラスにもいたでしょう。

本当はケンカが強いのに、絶対に人に手出しせず、

それでいて強いものにも流れず、

はっきりと、でも穏やかに自分の意見を表明できるような奴が。

 

なにか、他とちょっとちがう雰囲気を醸し出している奴。

 

きっとサムライとは、そういう人格なのではないですかね。

「この人がそういうなら」というオーラを放つ人ですよ。

 

私はそういう人が、ものすごく日本的だし、

カッコいいと思います。

 

 

話が飛んでしまいましたが、

戦後70年以上、日本が一度も戦争をせずに来たのは、

この平和主義の理想を実践してきたからに他ならず、

「戦争をしない国」というキャッチコピーが、

国際社会の中での日本の地位を高めて来ました。

 

「あの人、美人だよね」とみんなが言っているのに、

本人には自覚がない人というのがいますが、

今の日本は、まるでそれと似ています。

日本という国は、日本国民が自覚している以上に、

「平和を尊ぶ国」として、諸外国からカッコいいと思われているんですよ。

 

それを、日本人がいちばんわかっていない。

ちゃんと鏡を見てみるべきです。

 

そのカッコ良さを、みすみす捨てるなんて、馬鹿げています。

70年かけて築き上げたブランドを捨てれば、

また新しいブランディングをするのに数十年かかるでしょうから。

 

 

よく、戦争になったら、憲法では国は守れない、

という意見を言う人がいます。

 

申し訳ないですが、これはまちがいなんですね。

 

憲法で国は守れます。

少なくとも、守る効果があります。

 

どういう仕組みか、というと、憲法はたしかに日本という国の勝手な決まりですが、

そういう決まりを持った国であることを、諸外国は知っています。

 

それはつまり、世界を巻き込んだ戦争という事態が起きたとしても、

日本はそれに参加しないということを、諸外国は知っている、ということです。

(ここを破るから、集団的自衛権はヤバイ!)

この戦争と関係のない国であれば、

戦争している国はそこを攻めることも戦場にすることもないのです。

 

スティーブ・マックイーンが主演した不朽の名作

大脱走」のラストシーンはご存知でしょうか?

 

ドイツ軍の捕虜収容所から脱走した彼は、

盗んだバイクでスイスとの国境を目指します。

 

最後、その国境の鉄条網を越えることはできなかったわけですが、

逆に言えば、そこさえ越えれば彼の勝ち。

「この戦争に関係ない場所」に逃げ込んだ、ということです。

 

第二次大戦の時、スイスは安全な場所でした。

なぜなら、この戦争に参加しないと表明していたからで、

戦争をしている人々も、スイスを巻き込むことはしなかった。

 

そういうことです。

もちろん、「我々はこの戦争には無関係だ」と表明するために必要な、

自己防衛のための軍備はありましたから、

安易に手出しできない、というのもあったでしょう。

 

しかし、このような無関係の国を攻撃する、ということは、

国際社会の中で非常に立場を悪くしますから、通常はやらないのです。

 

日本は「戦争をしない」と表明しながら、

世界第7位の自己防衛装備を持った先進国です。

 

安易に手出しできないと印象づけるには十分の装備です。

 

日本が「非戦」を表明続ける限り、

そのような国を安易に攻めれば自滅につながりますから、

他国は日本に手出しできないのです。

 

このことを、私は勝手に「憲法9条のプレゼンテーション効果」と呼んでいます。

 

尖閣諸島などの話をする人がいるかも知れませんが、あれは「領土問題」です。

国境がどこにあるのか、ということが経済水域を決めるので、

互いに「俺のもんだ」と主張しますが、だからといって、

中国も韓国も、日本列島そのものを「自分のもんだ」と言ってきたりはしません。

 

そんなはずは、ないからです。

 

あそこの問題が、国そのものの存亡を脅かすと捉えるのはまちがいです。

 

放っておいたら中国は攻めてくる?

そんな国が、なぜ311のあと、日本に義援金を送ってくれるのですか?

 

物事は、大局から見つめるべきです。

 

 

戦後70年、日本がどこからも攻撃されなかったのは、

アメリカに守られていたからだ、という認識を持っている人も多いです。

 

しかし、それも正しいとは言い切れません。

 

アメリカは、日本を守るために日本に基地を持っているわけではありません。

アメリカの国益のために日本に軍を置いているだけです。

 

アメリカという国は、アジアからみると太平洋を挟んだ先にあって、

中国やロシアから非常に遠いのです。

 

そういう国々と交戦状態になったときに、

アメリカ本土を戦場にすることなく事態を進めるには、

緩衝地帯としてアジアに近い場所で相手の進出を抑える防波堤が必要なのです。

 

世界地図で日本の位置を見ると、

ちょうどアジアの大陸を見張るにはちょうどいい場所にありますよね。

 

アメリカ軍のサテライト基地を置くには最高の場所なのです。

 

中曽根元総理が「日本を不沈空母にする」と発言したことがありすが、

悲しいですが、まさにそれなんですね。

 

日本はアメリカ軍のための沈まない空母の役割をしているだけなのです。

 

米軍基地が攻撃されれば、もちろん米軍は動くでしょうが、

それとは関係のない日本のどこかが攻撃されても、

アメリカは日本を守ったりしません。

 

米軍が日本を守るには、米国の議会の承認が必要で、

議会がNOと言えば、日本は見殺しなのです。

 

 

さて、お話ししたように、日本という国は、

「どこの国とも戦争をしない」と表明している、世界でもとても珍しい国です。

 

私たちは、世界中が羨むような、

素晴らしく「変わった」憲法を持っているのです。

 

そんな変わった国だからこそ、

「日本は平和の国なのだ」と、世界中の国が覚えてくれているのです。

 

ユニークな人ほど、覚えてもらいやすいのと同じことです。

 

そして、みんながそう覚えてくれていることが、

結果として我々の国、日本を守っているのです。

 

言い換えれば、平和主義国家である日本を、

世界の良識が守ってくれているのです。

 

それが、戦争できる国、普通の国になった瞬間に、

日本を守っていた日本の価値は消えてなくなります。

 

日本は、キラリと光るものがなくなり、戦争屋アメリカの手先として

世界からの恨みを引き受ける係にされてしまうかも知れません。

 

あなたは、カッコいい国、日本が、

カッコ悪くなることを認められますか?

 

あまりにも、もったいないと思いませんか?

 

知ることの楽しさ

いつもは社会の課題について書くことが多く、

印象としてどこかネガティブになりやすいわけですが、

今日はポジティブなことを書いてみようと思います。

 

楽しさについてです。

 

私は「知る」ということがとても好きです。

 

それは他人の秘密を知るとか、スキャンダルの真相を知るとか、

そういう写真週刊誌のようなことではありません。

そういうのは、言わば「うわべを知る」ということであって、

とても表層的な出来事なわけですが。

 

私が好きなのは、もっと普遍的な、

人の心や物事のパターンを司るルールのようなもの。

物事の真理。

そんなことを知るのが、とても好きなのです。

 

なんでか、というと、単純に、とっても楽しいからです。

今まで知らなかったことを知る。

わからなかったことが、わかるようになる。

理解できなかったことが、理解できるようになる。

 

そんな体験によって、明らかに自分という個体が、

何かを感じ取る力をより増して行くことに、喜びを感じるのです。

 

「知る」というよりは「気づく」という言葉の方が

適切かもしれません。

 

気づいていることは、見えていることであり、

見えているということは、

課題に対して自分はどうすればいいのか、

どうすべきなのかを見つけやすいということなので、

「迷うこと」が少なくなるのです。

 

 

「知」への探究心を持つと、

物事に対してユニークな視点を持つことができるようになります。

 

これから、ちょっと不謹慎な例を出しますが、

あくまでも例えということでお許しください。

 

例えば、あなたが地震学者だったとします。

地震について、日々、探求しています。

そんなあなたを、大地震が襲ってきた時、

あなたはどう思うでしょうか?

 

他の多くの人と同じように、ただ恐怖におののくでしょうか?

 

おそらく違います。

地震は貴重なサンプルであり、

そこから多くの情報を得ようと言う頭が少なくとも少しは働くはずです。

 

そのとき、あなたの意識は地震という現象よりも上にあるはずです。

 

 

例えばあなたが大波を乗りこなすことを夢見るサーファーだったとします。

日々、大きな波を求めて海から海へ。

 

そんなあなたを津波が襲ってきた時、

あなたはどう思うでしょうか?

 

他の多くの人と同じように、ただ恐怖におののくでしょうか?

 

おそらく違います。

本当に海に出るかどうかは別として、

「この波に乗ることはできないのか?」と少しは考えるはずです。

 

そのとき、あなたの意識は津波という現象よりも上にある。

 

 

「知への探究心」というものは、一見、恐怖にしか見えないものさえ、

興味の対象に変えてしまうほどの力があるのです。

 

そんなふうに、物事に受け身になるのではなく、

こちらから迎えうつ意識を持てれば、

災害でさえ「ほらきた!」と対応できるかもしれない。

そういう意識を持つことが、災害に強い市民を作るのかもしれない。

 

知力とは、そういう「ちがう解釈」を可能にするものなのだと思うのです。

 

 

作家の立花隆さんが、非常に興味深いことを言っていました。

 

「死んでみたい」

 

そう言っていました。

「死ぬのが楽しみで仕方がない」と。

 

しかしこれは、「自殺願望」ではないのです。

立花さんは、誰にでも必ずやってくる「死」という現象にたいして

非常に興味を持ち、「死とはいったいなんなのか」という

永遠のテーマについて、知りたいと感じているのです。

 

その「知への探究心」が、死への恐怖を完全に凌駕している。

だから、「死」を「体験」と捉えていて、

「死んでみたい」という言葉が発せられたわけです。

 

しかし、彼は悩んでいるそうです。

彼がなぜ知りたいのか、というと、自分の知り得たことを

本に書き記して残したい、という目的があるからですが、

死んでしまったら、その体験を書き記すことができない。

 

だから、死がとても楽しみでありつつ、まだ死ねない。

 

私が彼の言葉で感銘を受けたのは、

「知ることが楽しすぎて、それが死の恐怖を超えられる」ということ。

 

こうなったとき、立花さんには怖いものがひとつもないでしょう。

すべては「体験」であり、「知りたいこと」の対象なのです。

 

 

私が「知る」ことで得たいちばん大きなことは、

「人ってこうなっているんだ」ということが

ある程度わかったときです。

 

人の心の仕組みとか、感情と心の関係とか。

 

「怒る」という感情が人に引き起こす負の影響とか。

 

「そういうことか!」とわかったとき、

それまで知らず知らずにかけていたメガネが吹き飛んだ感覚でした。

 

人間は、自分の感情を自分そのものだと勘違いしているので、

それに囚われてしまっている、という現実。

私自身、そう思っていました。勘違いしていました。

 

そして、自分の感情からの拘束から解放される方法もあるのだけれど、

それには自分を見つめ、向き合うというスキルが必要であること。

 

感情の向こう側に広がる静かなる空。

そこに辿り着くことができたときに得られる、解放的な平穏。

人間にはその領域があると誰もが知っていれば、

戦争も、争いも起こらないだろうに。

 

けれど、そこに達するには、「気づき」が必要で、

その気づきは、残念ながら他者から与えられることがない・・・。

 

仕組みが分かっていても、伝えられない歯痒さ。

そして、信じてもらえない切なさ。

 

それでも、そこにはそういう場所が、本当に存在している。

それが、現実なんですよね。

心の中の、ある場所に。

 

 

私は中学二年生のときまで、な~んにも考えていない

おバカさんな人間でした。

 

発想法はユニークだったと思いますが、特に何も考えていなかった。

 

ところが、あることがきっかけで、突然、気づいたのです。

突然、いろんなことがアタマに入ってくるようになったのです。

 

私は以前はそんな「気づいてない人」だったから、

「まだ気づいてない人」の気持ちもわかるし、

だからこそ、気づきの世界があることを、なんとか伝えたい。

 

それがときに、上から目線に見えたり、

へんな宗教でも信じているの?と思われたりするかも知れないけれど、

決してそんなことではない。

 

ただ言えるのは、いろんなことを「知る」ことが大事なんですよね。

知ることができたとき、知ることは喜びに変わるし、

もっと知りたいと思うようになる。

 

そのサイクルが、みんなの中に起こることを願っています。

勉強家と呼ばれる人は、決して勉強と思って勉強してないです。

 

ただ、楽しいんですよ。

知ることが。気づくことが。

 

その変化は、誰にでも起こることです。

そして、覚醒すると、人は、誰かにそれを伝えたくなるものです。

 

あなたも、自分が知ったことを、誰かに話してください。

話すことで、知は広がっていきます。

伝えることで、知の財産は分配されるのです。

 

そうやってベースになる人類全体の知力が上がっていくことが、

人類の進化なのだと思うのです。